仙台藩62万石の居城仙台城(青葉城)は青葉山の地形を生かした天然要塞です。東は広瀬川と断崖、西は原生林、南は南は竜ノ口峡谷に守られます。標高は約116mで、今も伊達政宗公の騎馬像が仙台の街を見守っています。
仙台城(青葉城)本丸跡に創建された宮城縣護国神社は、明治維新以降の諸事変や戦役における宮城県関係あるいは縁故のある戦死・殉難者、5万6千余柱を祀っています。
本丸
慶長5年(1600)縄張り。明治政府の廃城令により明治5~8年に取り壊し。青葉城資料展示館付近。
二の丸
寛永15年(1638)、二代藩主忠宗公造営。仙台藩の政治の中心。明治15年(1882)火災で焼失。東北大学川内キャンパス付近。
三の丸
政宗公の時代には庭園付きの茶室。二の丸造営の頃蔵屋敷になり「三の丸」となる。戦後まで三の丸巽門が残っていたがアメリカ駐留軍により取り壊され、仙台城関係遺構はすべて消滅。 仙台市博物館付近。
"仙台城跡
伊達政宗によって築かれた伊達氏の居城跡です。建設地の青葉山はかつて霊場であった場所で、そこに自然地形を活かし、高い石垣をもつ城郭を築きました。関ヶ原の戦い直後の慶長5年(1600年)12月に城の縄張りが行われ、翌年1月から普請に着手。工事は慶長7年(1602年)には一応の完成をみたとされています。二の丸は2代藩主忠宗によって造営され、以降藩政の中心となりました。"
巽櫓(たつみやぐら)跡からの眺めです。下は断崖絶壁でその先には広瀬川が蛇行して流れています。
中央部が花壇自動車学校、広瀬川が大きくうねった場所にあります。その先には経ヶ峰大露頭と呼ばれる断崖です。亜炭などを含む向山層が広瀬川凝灰岩部層を挟んだ地層が見られます。
北東方面、左の大きな建物は仙台国際センター、その先には仙台市地下鉄東西線が橋梁を渡っています。この後、地下鉄として日本で最も勾配がある坂を上っていきます。
標高約116mから、仙台市中心部を一望できます。伊達政宗像がこの景色を見つめます。
" 仙台藩祖伊達政宗卿騎馬の銅像が森の都仙台の青葉山につくられたのは昭和10年のことである。ときの宮城県青年団が郷土の彫刻家小室達氏に託して制作した。19年1月太平洋戦争による金属徴用でその姿を消したが 28年10月新たに卿の平服姿をかたどった白色セメント立像を小野田セメント株式会社が制作して市に贈った。
たまたま騎馬像の原型が柴田町に保存されていることがわかり 銅像再建を望む声が高まったので 37年10月本協会法人改組の記念事業として復元を企てたところ 幸いに宮城県 仙台市 柴田町の支援と県内外の熱心な協賛を得て事業もはかどり ここに卿の雄姿を復興することができた。
経済の開発と文化の発展につくした英雄の風格は郷土繁栄の象徴として その遺徳とともに永遠にたたえられるであろう。
昭和39年10月1日
社団法人 仙台市観光協会
会長 島野 武"
「明治元年現状仙台城市之図」、江戸の町割りを残す図です。芭蕉の辻が道路の起点になっているのがわかります。仙台城の鬼門が仙台東照宮で、鬼門である北東のラインをベースにして、大手門から芭蕉の辻に伸びる道の傾きが決まっています。
大広間の遺構表示です。基礎の石を再現して大広間を再現しています。
築城時の石垣モデルと本丸北壁の石垣モデルです。年代で石垣の積み方が違うのがわかります。
本丸北側石垣です。先ほどのモデルで積まれたきれいな線が特徴的です。
"由緒
明治維新から大東亜戦争に至るまで、幾多の戦没で尊い命を御国に捧げられた 郷土の出身者の み霊を祀る。
明治37年8月27日仙台城(青葉城)本丸址に招魂社として創建され、昭和14年内務大臣指定護國神社となり、昭和20年7月仙台大空襲の戦火により神社施設を全焼したが、戦後現在の姿に復興した。
現在、御祭神56,000余柱をお祀りしている。
〔神社本庁包括別表神社〕"
仙台城は現在の仙台の街が作られた起点となっています。町割りの起点なのです。
仙台城跡からは今でも伊達政宗公が仙台の街を見守っています。今の仙台の発展を誇らしげに見つめているかのようです。