gon02DSC03585柳橋は神田川にかかる橋で、隅田川に流入する河口部に位置する第一橋梁です。神田川最下流の橋梁であり、中央区民文化財に指定されています。タイド・アーチ橋、橋長37.9m、昭和4年(1929)竣工です。世界恐慌の年が竣工になっています。





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”中央区文化財
 柳橋
  所在地 中央区東日本橋2丁目 台東区柳橋1丁目(神田川)

 柳橋は神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一橋梁です。その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡船で往き来していましたが、不便なので元禄10年(1697)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌11年に完成しました。
 その頃の柳橋辺りは隅田川の船遊び客の船宿が多く、”柳橋川へ蒲団をほうり込み”と川柳に見られる様な賑わいぶりでした。
 明治20年(1887)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正12年(1923)の関東大震災で落ちてしまいました。復興局は支流河口部の第一橋梁には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。柳橋はドイツ・ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ、昭和4年(1929)に完成しました。
 完成から70余年、現在、区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は貴重な近代の土木遺産として平成3年に整備し、同11年に区民有形文化財に登録されています。
 平成14年3月
 中央区教育委員会”

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”柳橋
 柳橋の下を流れる神田川は、三鷹市井之頭池を水源とし、都心部を流れて隅田川に注ぐ全長約25kmの都市河川です。
 この位置に初めて橋が架かったのは、元禄11年(1698)のことで、「川口出口之橋」あるいは近くに幕府の矢の倉があったことから「矢の倉橋」と呼ばれていました。
 「柳橋」と由来については、
 (1)矢の倉橋が矢之城(やのき)橋になり、さらに柳橋となる。
 (2)柳原堤の末にあったことに由来する。
 (3)橋の袂に柳の樹があったことに由来する。
このように諸説ありますが、真説は不明です。
 明治維新後、柳橋は新橋とともに花街として東京を代表するような場所になり、新橋は各藩から出て政府の役人になった人々、柳橋は江戸以来の商人や昔の旗本といった人々が集まる所であったようです。
 区では平成3年度に、優美な形をしたこの橋を後世に伝えるため、傷んだ親柱を復元し、欄干は花街に因んで「かんざし」を飾り、歩道には御影石を張って再生しました。また、夕暮れより照明の演出をして、神田川河口に架かる「柳橋」の存在感を持たせました。
  平成4年1月 東京都中央区

柳橋の諸元
 形式 タイド・アーチ橋
 橋長 37.9m
 遊行幅員 11.0m(車道6.0m 歩道2.5m×2)
 建設年次 昭和4年12月(復興局施工)

春の夜や女見返る柳橋 子規
贅沢な人の涼みや柳橋 子規



gon02DSC03588現在でも船宿が軒を連ねています。屋形船で隅田川を下り、東京湾の夜景を楽しむことが出来ます。


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船宿の入口にいた猫。



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下流を見れば、すぐに隅田川が見えます。神田川の河口部です。


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神田がクルーズから見た柳橋です。隅田川に出たところから写真を撮りました(2013年撮影)。


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gon02DSC03591ライン川の橋を参考にされたデザイン、曲線が美しい橋です。


gon02DSC03596ボルトが美しく配列されています。
平成3年度の改修工事で、歩道の舗装には御影石が張られました。



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こちらも平成3年度の改修工事で、欄干に飾られた「かんざし」です。


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橋のたもとには復興記念の石碑がありました。

大正12年(1923)9月の関東大震災後に帝都復興院総裁として東京の帝都復興計画を立案した後藤新平が亡くなった年に柳橋は竣工しました。大正13年(1924年)2月に帝都復興院は廃止され、復興局に引き継がれます。復興局は昭和5年(1930)4月に復興事務局に改組、昭和7年(1932)に廃止されました。

柳橋は関東大震災から6年後、復興の終盤に架橋されたことになります。今年で竣工から90年となります。その後の東京大空襲を耐え抜き、戦後の復興を見てきた橋には歴史の重みを感じます。