gon02DSC03755富岡八幡宮の東側にある八幡堀遊歩道は運河を埋め立てて出来た遊歩道です。遊歩道には歴史がある二つの橋、八幡橋(旧弾正橋)と旧新田橋があります。





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gon02DSC03751遊歩道は緩くカーブしていて少し勾配があります。いかにも埋め立てられ川といった印象を受けます。




八幡橋(旧弾正橋)
gon02DSC03752八幡橋です。低くなった遊歩道を渡しています。



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明治11年(1878)に東京で初めて架けられた鉄橋です。


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菊の御紋が部材に使用されています。



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アメリカ土木学会栄誉賞のレリーフです。



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”国指定重要文化財(建造物)
 旧弾正橋(きゅう だんじょうばし)(八幡橋)
  富岡1-19~富岡2-7
  昭和52年6月27日指定
 八幡橋は、東京市で最初に架けらた鉄橋である。長さ15.2メートル、幅2メートル、単径間アーチ橋の形式をとる。アーチ橋は鋳鉄製で5本の直材をつなぎ、その他の引張材は錬鉄製の鋳錬金剛の橋である。もとは、京橋区(中央区)の楓川にかけられていたものである。経緯については、「八幡橋新橋来歴」に詳しく記されている。この橋は明治11年(1878)、東京府の依頼により工部省赤羽製作所で製造された。はじめは弾正橋と称していたが、大正2年(1913)の市区改正により新しい弾生橋が架けられたため、元弾正橋と改称された。さらに、関東大震災後の帝都復興計画により廃橋となり、昭和4年(1929)、現在地に移設された。富岡八幡宮の東隣であるため、名称も八幡橋と改められた。現存する鉄橋としては最古に属するものであり、また、菊の紋章のある橋としても有名である。鋳鉄橋から錬鉄橋に至る過渡期の鉄橋として、近代橋梁史上貴重なものであるとともに、独特な構造手法を用いて施工してあり、技術史の上でも勝の高い橋である。
  江東区教育委員会”


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gon02DSC03758人力車のモニュメントがあり、こちらにも八幡橋の説明がありました。

”八幡橋(旧弾正橋)
 八幡橋は、明治11年(1878年)に京橋区楓川に架けられ、島田弾正屋敷が近くにあったことから弾正橋と呼ばれていました。
 現在の中央区宝町三丁目付近に位置します。弾正橋は、馬場先門から本所・深川を結ぶ主要街路の1つで、文明開化のシンボルとして架橋されましたが、その後関東大震災の復興事業により廃橋となってしまいました。しかし昭和4年(1929年)には、その由緒を惜しみ現在地に移設され、八幡橋と名前も改められました。現在では江東区が大切に保存しています。
 この東京名所図会(三ツ橋の現況)には、明治34年(1901年)頃の弾正橋(左奥)が描かれており、当時の情景が偲ばれます。
 弾正橋・白魚橋・真福寺橋とをあわせ三ツ橋と呼び、古くから有名で人々から親しまれていました。”





旧新田橋

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gon02DSC03761こちらは元々は木場で人道橋として利用されていた旧新田橋です。昭和7年に「橋供養」の意味を込めて架けらたという橋です。


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”旧新田橋
 新田橋は、大横川(旧大島川)に架かり、江東区木場5丁目から木場6丁目を結ぶ、町の人々の暮らしを支え続けてきた小さな橋の人道橋です。
 大正時代、岐阜県から上京し、木場5丁目に医院の開業をしていた新田清三郎さんが、昭和7年、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味を込めて、近所の多くの人たちと協力して架けられたものです。
 当初、「新船橋」と名付けられたが、町の相談役としても人望が厚く、「木場の赤ひげ先生」的な存在であった新田医師は、亡くなった後も地域の人々から愛され、いつしか「新田橋」と呼ばれるようになりました。
 また、映画やテレビの舞台ともなり、下町の人々の生活や歴史の移り変わり、出会いや別れ、様々な人生模様をこの橋は静かに見守り続けてきました。
『旧新田橋 諸元』
 橋梁形式:一径間ワーレン鋼構橋
 橋長:23.355m 幅員:1.806m
 塗装色:茶系(昭和7年架設当時の塗装色を再現)
  ※塗装色は護岸工により架替えられるまで赤系の色が塗られ赤い橋としてもしたしまれた。”



元の場所で不要になった橋を残すという行為は無駄なように思われますが、橋への愛着や感謝の意味が込められているのだと思います。土木遺産としても貴重な存在だと思います。