曹洞宗 金剛寶山 輪王寺北山五山(きたやまござん)は、旧仙台藩城下町北側の東西に延びる北山丘陵にある5つの寺院を指します。青葉城の鬼門を護り、奥州街道の関門としても仙台藩の北の守りとなっていました。散策したコース地図はあとから紹介します。


鎌倉時代、臨済宗に帰依した伊達氏第4代当主伊達政依(まさより)が、福島県伊達郡に創建した5つの寺がもとです。京都五山・鎌倉五山にならい「伊達五山」として東昌寺、光明寺、満勝寺、観音寺、光福寺を創建しました。東昌寺は伊達家最初の菩提寺です。

江戸時代になり、仙台藩祖である政宗公が現在の地に5寺を移しました。「伊達五山」のうち観音寺・光福寺の2寺が廃され、覚範寺、資福寺が加わります。現在、満勝寺は柏木に移転され、輪王寺を含めて北山五山と呼ばれるようになったようです。今回、満勝寺には回りませんでした。



曹洞宗 金剛寶山 輪王寺

曹洞宗 金剛寶山 輪王寺奥州曹洞宗総録司、仙台城下曹洞宗四大寺主座の輪王寺は、北山五山には後から加わりました。嘉吉元年(1441)に福島県伊達市で創建、西山・米沢・ 会津・米沢・岩出山・仙台と6回移転。現在地には慶長7年(1602)に移転。回遊式庭園には三重塔や茶室を配します。 仙台藩祖伊達政宗夫人愛姫の母と八男・竹松丸の墓があります。本尊:釈迦牟尼仏
詳しくは(輪王寺(仙台市青葉区北山)の美しい参道と庭園


曹洞宗 金剛寶山 輪王寺

"輪王寺と北山五山
 輪王寺は嘉吉元年(1441年)伊達氏11世持宗が、祖母である9世政宗夫人の菩提寺として福島県伊達市梁川に創建したもので、伊達政宗公の仙台開府にあたりこの地に移った。
 境内には、幼くして亡くなった政宗の八男・竹松丸と政宗の夫人愛姫の母の墓がある。自然豊かな中に三重塔、茶室を配する回遊式庭園が、静かなたたずまいを見せている。
 北山五山は仙台市の北山一帯に点在する禅宗の寺の総称で、東昌寺、覚範寺、光明寺、資福寺、満勝寺のそれぞれが伊達家ゆかりの菩提寺になっており、京都五山にならってこの名が付けられた。満勝寺が移転したため、現在では輪王寺を含めて北山五山と呼ぶ場合がある。"

曹洞宗 金剛寶山 輪王寺
曹洞宗 金剛寶山 輪王寺
曹洞宗 金剛寶山 輪王寺
曹洞宗 金剛寶山 輪王寺

"輪王寺山門
 輪王寺は、伊達氏11代伊達持宗によって嘉吉元年(1441)、伊達郡梁川(福島県梁川町)に創建され、伊達氏に従って仙台の地に移ってきた。現在地に移ったのは、慶長7年(1602)で、御一門格寺院として大伽藍を形成した。この山門が建立されたのは、元禄4年(1691)仙台藩四代藩主伊達綱村により仏殿、客殿などが整備された際になるものと見られ、明治9年(1876)の北山大火を免れた輪王寺境内唯一の遺構である。
 三間一戸の八脚門(主柱四本の前後に控柱が四本ある門)で、切妻造、本瓦葺。柱はいずれも円柱で、棟の左右に鯱が載り、前面左右に仁王が配されている。江戸時代中期の堅実な手法を伝えている門である。
  平成17年3月 仙台市教育委員会"

曹洞宗 金剛寶山 輪王寺
曹洞宗 金剛寶山 輪王寺
曹洞宗 金剛寶山 輪王寺
曹洞宗 金剛寶山 輪王寺
曹洞宗 金剛寶山 輪王寺山門をくぐり、まっすぐな参道を進むと本堂があり、奥には庭園が配されています。回廊式庭園では、冬に備えた"雪つり"が始まっていました。紅葉もまだ残っています。


臨済宗妙心寺派 慈雲山 資福寺
gon12DSC01606_thumb紫陽花の名所として「アジサイ寺」の異名を持つ、臨済宗妙心寺派の寺院です。本尊は観世音菩薩で仙台三十三観音第三番札所となっています。鎌倉時代の弘安年間(1278~87)、山形県高畠町夏茂に領主長井時秀が建立したのが始まりです。元中2年(1385)、長井氏は伊達氏に滅ばされます。
関東十刹の一つに挙げられ、東北の学問の中心だったようです。
伊達氏が米沢に移った際、伊達五山だった観音寺と光福寺が吸収されたの資福寺だったようです。米沢の寺跡には政宗の父輝宗の墓が残っているそうです。戦国時代には、政宗の教育が任されたお寺です。天正19年(1591)に岩出山、慶長5年(1600)に仙台市東六番、寛永15年(1638)に現在地へ、伊達氏とともに移転しました。本尊:観世音菩薩


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臨済宗妙心寺派 遠山 覚範禅寺
gon12DSC01616臨済宗妙心寺派の寺院です。仙台藩祖伊達政宗の父輝宗の菩提寺であり、政宗の生母義姫(保春院)の墓と政宗の三男宗清の供養塔があります。
天正14年(1586)、政宗が米沢遠山村に創建したのがはじまりです。遠山(えんざん)という山号の由来の様です。文禄元年(1592)に岩出山、慶長6年(1601)に仙台の愛宕山,翌慶長7年(1602)に小人騒動で焼失、現在地に再建されます。 本尊:聖観音


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gon12DSC01623_thumb鐘楼の奥には仙台の街並みが見えます。見晴らしが良い場所です。

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gon12DSC01625_thumb本堂の前には石の達磨が二体並びます。

gon12DSC01629_thumb向かって右が伊達政宗の生母である保春院の墓、左が政宗の三男である宗清の供養塔です。

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"保春院の墓
向かって右、俗名を義姫(義子)といい、伊達政宗の生母。山形城主最上義守の娘で義光の妹にあたる。米沢城主伊達輝宗に嫁ぎ、政宗(梵天丸)と小次郎(笠丸)をもうけた。輝宗の死後、佛門に入り、保春院と号している。
小次郎を偏愛した保春院は、天将18年(1590)政宗を毒殺し、次男小次郎を擁立しようとしたが失敗、政宗みずから小次郎を成敗し、保春院は山形の実家へ去った。この事件については、小田原城攻めに遅れ秀吉の機嫌を損ねた政宗を殺さねば伊達家が危ないと、兄の義光に入れ知恵されたためとされているが、政宗が自分の出立後小次郎を擁立して背くものがあることを恐れ、一芝居打ったのではないかともいわれており、真相は定かではない。
事件のほとぼりがさめると、政宗は保春院と文通をしており、最上家のあと継ぎ争いにより領地を没収されたときには、保春院を仙台に向かい入れている。元和9年(1623)政宗は京都で保春院死去の報を受けた。保春院は夫輝宗の牌寺であるこの覚範寺に葬られ、その後政宗は南小泉に保春院を開基して牌所とした。

伊達宗清供養塔
向かって左、伊達宗清は政宗の三男で、幼名は権八郎、母は側室の新造御方(俗にいわれる飯坂の局は伊達宗清の乳母である)で京都伏見で誕生、所領は黒川郡を主として与えられた。寛永11年(1634)35歳で死去大和町吉岡天皇寺に葬られた。
     平成3年12月 仙台市教育委員会建標
     平成15年11月 当山再建標"



臨済宗東福寺派 無為山 東昌禅寺
gon12DSC01658_thumb弘安6年(1283)、伊達氏第4代当主伊達政依(まさより)が自らの菩提寺として桑折に創建した伊達家最初の菩提寺です。伊達五山の筆頭格。米沢高畠、岩出山、北山に移転します。当初は現在の青葉神社通りの北突端にありました。境内への青葉神社の造営にともなって、明治6年(1873)に現在地に移動しています。政宗が城下建設の際に最初に決定した場所が東昌寺だったと伝えられています。初代住職の大有和尚は政宗公の大叔父です。東昌寺は伊達家にとって重要な寺院だったことが分かります。いわゆる仙台六芒星の頂点が東昌寺となります。
政宗が城下の鬼門除けとして植えたと伝わる、推定樹齢500年の丸実榧(マルミガヤ)があります。2代忠宗の長男虎千代丸の墓があります。本尊:釈迦牟尼仏


gon12DSC01661_thumb 赤松並木がある参道を上ります。

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東昌寺コウヨウザン
東昌寺コウヨウザン

東昌寺アカマツ
東昌寺アカマツマルミガヤの他にも本堂前にはコウヨウザンとアカマツがあり、仙台市の保存樹木に指定されています。



臨済宗東福寺派 松陰山 光明禅寺
gon12DSC01682弘安6年(1283)、伊達氏第4代当主伊達政依(まさより)が伊達氏の始祖朝宗夫人の菩提寺として福島県伊達郡光明寺村に創建しました。慶長9年(1604)にこの地に移ります。慶長遺欧使節としてヨーロッパに渡航した支倉常長の墓、案内人であったルイス・ソテロの記念碑が建立されています。本尊:千手観音

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支倉常長の墓支倉常長の墓です。

支倉常長の墓

支倉常長の墓

"伝 支倉常長の墓
 支倉六右衛門常長は、伊達政宗の命を受け、慶長18年(1613)に慶長遣欧使節として180余人の使節団を率い宣教師ソテロを案内人として、牡鹿郡(現石巻市)月浦を出帆、太平洋と大西洋を横断して元和元年(1615)スペインのマドリードでイスパニア国王フェリペ3世に謁見しました。
ここで常長は外交交渉を行い、また、自身も洗礼を受け、ドン・フィリッポ・フランシスコの名を授けられました。次いでローマを訪問し、ローマ教皇に謁見してローマ市公民権を与えられ、貴族に列せられるなど歓迎を受けましたが、キリスト教弾圧、鎖国へと向かっていた日本の国内情勢の変化により、ノビスパニア(メキシコ)との通商、宣教師の派遣という目的を達することなく元和6年(1620)に帰国、不遇な晩年を送ったと言われています。
 この墓は、中央の五輪の塔で、右に案内人ソテロの碑があります。
(常長の墓の所在については異説があります)
 なお、常長が持ち帰った品々は、仙台市博物館に展示されており、平成13年6月に国宝に指定されています。
    平成14年12月 仙台市教育委員会"




北山五山を巡ると伊達家の歴史の一部が垣間見えるのではないでしょうか。
元々は東昌寺の境内だった場所には、伊達政宗公を祀る青葉神社も建立されました。仙台六芒星のうえに五山があるのも何か意味があるのかもしれません。