ブラタモリ(2015年7月11日放送)『仙台~伊達政宗は「地形マニア」!?~』では、伊達政宗が築いた「四ツ谷用水」を取り上げていました。番組で取り上げた場所を中心に仙台市内を巡ってみました。
仙台散歩としましたが、長い距離は車で移動です。地図は最後に紹介します。
伊達政宗は居城である青葉城を山地に築きました。守りを優先するためです。結果、城下町も平野から離れた河岸段丘(台地)に作られます。
海に近い平野を避けた理由は他にもありました。平野部は古代から、洪水と津波に襲われていたのです。
広瀬川右岸側の「青葉山段丘」に青葉城があります。左岸を中心に河岸段丘が形成され、低い方から「下町段丘」・「中町段丘」・「上町段丘」・「台原段丘」と呼ばれています。数10万年前からの河床変化や気象変動による台地の浸食で、河岸段丘は今の形になりました。
河岸段丘(台地)に作られた城下町には大きな問題があります。都市生活に欠かせない水がないのです。広瀬川などの河川が作った谷や断崖が仙台には多く、簡単には水路を引けないという問題もありました。
伊達政宗は、4つの谷を水道橋で超える「四ツ谷用水」を敷設します。これが「四ツ谷用水」の名前の由来です。
本流は西から東へ、八幡町から北六番丁を流れ、宮町を通って梅田川に注ぎます。
本流からは、覚性院丁、木町、通町で支流が分岐します。支流から多くの枝流を分流させ、市中を巡らせました。本流と支流などを合わせると全長は40kmを超えます。1620年に完成したと言われています。
水田等の農業用水、市内の生活用水や消防用水、染物などの産業用水など、人々の生活に欠かせない用水となりました。同時に下流部の湿地帯では排水の役目を果たしました。湿地帯を居住地として使える土地に変えたのです。
用水の水は、台地岩盤上の砂利層に浸透して井戸水の水源にもなりました。明治期まで、仙台市内には多くの井戸があったそうです。台地に井戸が多いのは珍しいことです。
明治時代に入ると道路改修による影響、下水道整備などにより、用水支流の暗渠化や埋め立てが進めれらました。本流は昭和30年代、県工業用水道として函渠化されました。
「四ツ谷用水」の遺構、河岸段丘や谷など地形を巡ります。
へくり沢(蟹子沢)の渓谷
川の浸食によって削られた"すり鉢状"の渓谷「へくり沢」です。両側が断崖絶壁の谷です。
ここを川が流れていたようですが、現在は暗渠化されています。この様な地形が多く、城下町へ水を引くことは簡単ではありませんでした。
この沢は、現在の国見小学校付近から流れていたようです。後から紹介しますが、春日神社付近で「四ツ谷用水」が横切ります。4つ目の谷です。
谷の奥(写真を撮った場所)は、谷を埋め立てた土橋だとか。上の道路が土橋通りで、両側が谷になっています。
土橋通りから、へくり沢を望みます。
谷の下の方に来ましたが、かなり高い崖です。
淀橋と広瀬川の河畔
右岸側は絶壁になっています。左岸側には低い方から「下町段丘」・「中町段丘」・「上町段丘」・「台原段丘」が形成されています。
青葉区角五郎や花壇などは「下町段丘」、仙台市役所や仙台駅などは「中町段丘」、宮城県庁や東照宮等は「上町段丘」、東北労災病院や地下鉄台原駅などは「台原段丘」となります。
仙台市役所と宮城県庁は道路を挟んで近接していますが、「中町段丘」と「上町段丘」に分かれます。
手前は淀橋の旧橋台と思われます。
角五郎丁と中島丁
「下町段丘」から「中町段丘」へと上る坂道です。へくり沢から左折すれば、新坂という急な坂道もあります。
仙台の地形の特徴を確認して、四ツ谷用水の上流部へ向かいました。国道48号線を仙台宮城IC方面へ進みます。
四ツ谷堰(「四ツ谷用水」の取水堰、宮城県工業用水事務所郷六取水口)
国道48号線は仙台宮城ICに方面へ広瀬川を渡りますが、その手前に四ツ谷堰があります。
次(「四ツ谷用水」の開水路)で紹介する案内板によると、こちらの堰は明治10年代に造られたものとなります。ここから1号隧道(トンネル)を通って、当初の取水堰(「四ツ谷用水」の開水路)付近まで流れます。
取水口は立入禁止のため、取水している場所は見学できませんでした。広瀬川から取水するため、川を堰止める四ツ谷用水堰堤があります。
再び、国道48号線を引き返します。葬祭場横の細い道を下れば、次の目的地です。
「四ツ谷用水」の開水路(宮城県工業用水路沈砂池)
江戸時代の「四ツ谷用水」を開渠で確認できる唯一の場所です。
宮城県工業用水路沈砂池
先ほどの四ツ谷堰から1号隧道を通り、沈砂池を経由して開水路に流れ込みます。
写真の右側が沈砂池、左側が「四ツ谷用水」の開水路です。
下流側から、写真の左が沈砂池、右が「四ツ谷用水」の開水路。
案内板によると、当初の取水堰は、沈砂池近くの広瀬川にあったようです。当初の取水堰方面へ歩いてみます。
畑があり、途中には段差があります。この縁の下を元々は用水が流れていたのかもしれません。
現在の「北堰」(三居沢発電所の取水堰)近くだったようです。川の近くには下りられませんでしたが、広瀬川の流れを確認できました。
1号隧道上の道路には、開削注意の看板が設置されていました。
開水路の先には最初の谷、針金沢があります。針金沢の先から2号隧道へと流れ込んで行きます。2号隧道の先にある2つ目の谷、聖沢に向かいます。
聖沢掛樋
2つ目の谷を渡る水道橋です。国道48号線の急カーブと並行した、旧道と思われる橋の横に掛樋が確認できました。
現在はコンクリート製の掛樋ですが、江戸時代は松を材料にした木製の掛樋だったとか。掛樋の大きさは、幅・高さ共に1.5メートルだったようです。
上流には砂防堰が見えます。
「四ツ谷用水」の4つの谷で一番深い沢が聖沢です。
この案内板の地図は「四ツ谷用水」上流部の経路が分かりやすいですね。
奥の橋が国道48号線、手前の橋から聖沢掛樋が確認できます。ずっと奥に仙台市の中心部が見えます。
本国寺「日蓮聖人銅像」
聖沢掛樋のそばには本国寺があり、日蓮聖人銅像が仙台中心部を見守るように立っていました。
国道48号線を仙台市中心部に進みます。
国道48号線から大崎八幡宮へ向かう道路が3つ目の谷のようです。
三居沢発電所
三居沢発電所に立ち寄ってみます。先ほど紹介した当初の取水堰近くに、発電所の取水堰があります。広瀬川の水と、崖の高低差を活用した水力発電所です。日本の水力発電発祥地だそうです。
明治41年(1908)に建てられた木造の建物です。
三居沢大聖不動尊堂
三居沢発電所にある不動尊堂です。湿気が醸し出す神秘的な雰囲気の神社でした。
「四ツ谷用水」の暗渠
八幡五丁目の交差点から国道48号線を東に進み、一つ目の信号を左折すると「四ツ谷用水」の暗渠を見ることが出来ます。旧町名は江戸町です。
道路の幅に対して比率的に広い歩道は暗渠だと、ブラタモリでは言っていました。
「中町段丘」と「上町段丘」の"へり"、段丘崖沿いを用水は進みます。
いい具合に曲がった段丘の"へり"です。へりタクシーやへりガールには出会えませんでしたが、セクシーなカーブです(笑)
台地のへりと暗渠を楽しみながら進んでいきます。
ここからは通り抜けが困難な様子でしたので、右手の道路から先を目指しました。
瀬田谷不動尊
ここも谷の名前が付いています。不動尊に隣接した集会所では、お年寄りが麻雀を楽しんでいました。
覚性院丁と石切町
かつて「四ツ谷用水」の第一支流が流れていた覚性院丁へ進みます。
春日神社
覚性院丁から春日神社の参道を進むと、参道途中で「四ツ谷用水」の暗渠が横切ります。
暗渠の立体交差
春日神社の西側は丁字路になっています。この丁字路、「へくり沢」と「四ツ谷用水」の"暗渠が立体交差"している場所です。ここが4つ目の谷です。
写真の奥から手前が「四ツ谷用水」暗渠上の遊歩道。右手の階段側から左手へ、用水の下を「へくり沢」が流れています。
「へくり沢」の水の音がマンホールから聞こえてきます。「四ツ谷用水」の暗渠の下を通り、先ほど紹介した「へくり沢」の渓谷へ繋がるのです。
へくり沢の暗渠が続いていきます。
ブラタモリでタモリさんが興奮していた"暗渠の立体交差"がここです。
「四ツ谷用水」の第一支流
「四ツ谷用水」が第一支流に分かれる場所があります。第一支流は覚性院丁に流れ、更に分岐していくのです。
ここの青いトタンの先に家がない通路があり、覚性院丁に繋がっています。
(写真は自粛)
昭和15年ごろの春日神社付近
神社の参道にあった神社付近を描いた絵です。
「四ツ谷用水」と第一支流、「へくり沢」の様子が良く分かりました。
四ツ谷用水「洗い場」跡
用水上の遊歩道を東へ進みます。炊事や洗濯などの「洗い場」跡の案内板が設置されていました。洗い場に下りるための階段の面影が残る場所です。
「洗い場」跡を進むと、土橋通りにぶつかります。道の反対に用水の暗渠は続きますが、立入禁止となっています。
用水本流を跡にして、仙台市中心部に向かいます。
名掛丁に残る「四ツ谷用水」の名残り
支流はほとんど埋め立てられましたが、仙台市中心部に用水の名残りが残されています。
仙台市中心部には6つの商店街があり、アーケードで繋がっています。商店街の境目は、通常は大きな通りを境に分かれています。ハピナ名掛丁商店街とクリスロード商店街(新伝馬町)の境目はアーケードの途中にあります。
江戸時代、「四ツ谷用水」を境にして武士が住む名掛丁と町人が住む新伝馬町に分かれていました。用水が流れた場所がタイルで示されています。
武士が住む町には「丁(ちょう)」と、町人や職人、足軽が住む町には「町(まち)」と伊達政宗は名付けました。
壱弐参(いろは)横丁の井戸
昭和20年7月10日の「仙台空襲」では、市中心部が焼け野原となりました。戦後、仙台駅前や一番町で露天が開かれます。昭和21年8月、露天商たちは「中央公設市場」を共同で開きます。壱弐参(いろは)横丁の前身でした。
台地の上には砂利の層があり、用水から砂利層に水が浸透して井戸水の水源となりました。仙台では5、6メートルも掘れば水が湧いたそうです。
壱弐参(いろは)横丁でも井戸の水が利用されて来ました。現在でも井戸が残っています。
うなぎ屋「明ぼ乃」ではウナギを井戸の水で飼っているそうです。明治元年(1868)創業で、老舗のうなぎ屋さんです。仙台空襲で焼け出され、壱弐参(いろは)横丁に移転したのだとか。
東日本大震災の時にもウナギが生きていて、炊き出しでウナギを振る舞ったそうです。近所の方々が大変喜ばれたとか。
ブラタモリでは、タモリさんが「伊達政宗が地形を熟知して、用水が多目的に利用されてきた」、「(うなぎ屋さんは)遺産で食べている」と話されていました。
伊達政宗が築いた城下町「仙台」は、大都市となった今でも江戸の名残りや地形を残していました。そして、かつての城下町は守られているのです。