仙台といえば、まずはじめに思い浮かぶのが「広瀬川」に「伊達政宗」です。正月明けの寒風の中、仙台の広瀬川河畔を中心に散策してみました。 マップは最後に紹介します。
仙台市地下鉄南北線の五橋駅に近い、東北学院大学土樋キャンパスから広瀬川河畔に向かうことにしました。
田町大日堂(文殊院)
東北学院大学東側の坂道を下り始めると、右手にひっそりと「田町大日堂(文殊院)」という御堂があります。
入り口の門柱には「成田山分霊所」の表札がありました。
入り口近くには稲荷神社があります。伊達家は古くからお稲荷さんを深く信仰していたようです。
真言宗が稲荷神を布教したことから、真言宗のお寺には稲荷神を祀っていることが多いのかもしれません。
平成20年に再建された新しい御堂です。 戦災で焼失しましたが、田町が焼け野原にならなかったのは大日堂が身代わりなってくれたからだとして、戦後に再興されたという経緯があるそうです。
大同年間(806)に空海(弘法大師)が会津若松に大日如来を本尊とした眞隆寺を創建したが、その後、荒廃していたそうです。本田内蔵という僧侶が、尊像を奉持して諸国遍歴した際の慶安2年(1649)に仙台で建立したのが始まりです。天台宗、真言宗と変遷した歴史があるとのことです。
田町大日堂をあとにして、坂を下ると左手には東北学院大学の図書館が見えてきます。
更に坂を下り、丁字路を右に曲がります。
仙台広瀬河畔教会
仙台広瀬河畔教会が見えてきました。幼稚園も併設されています。
広瀬河畔教会という名前だけあって、教会横の路地を入ると広瀬川河畔を眺めることが出来ました。下流側に愛宕大橋が見えます。
下を見れば、広瀬川の流れが間近に見えます。岸辺が岩盤のようになっています。
河畔教会前の道路に戻り、少し進み松源寺という看板を左に曲がります。
松源寺
曹洞宗、輪王寺の末寺だそうです。永正18年(1521)に白河にて建立されました。天正年中、豊臣秀吉の奥州仕置により小峰城主白河義親の領地が没収されます。この時、伊達政宗は義親一家を輩下に収めます。松源寺は義親の子義綱を開基として仙台に移転したそうです。
松源寺の本堂です。
境内には古い井戸が残っていました。
松源寺の前の道路を進み、丁字路を左に進みます。
右側の方角に緩やかな坂が続きます。 この先に鹿子清水があります。
この坂を下ると本多会館が左手に見えてきます。
東北大学本多会館
本多光太郎元東北大学総長の旧邸宅です。現東北大学金属材料研究所(1916年設立)の教授や所長として鉄や金属に関する多くの研究を発表したことから、「鉄の神様」と呼ばれたそうです。1931年に東北大学総長に就任しました。
本多会館をすぎると縛地蔵尊に突き当たります。
縛地蔵尊
お家お取り潰しの危機にまで発展した伊達騒動で非業の死を遂げた、伊東七十郎の供養のために建てられたとされる地蔵尊です。戦災で焼失しましたが、昭和34年に再建されました。
「人間のあらゆる苦しみ悩みを取り除いてくれる」と信じられ、願かけに縄で縛る習わしから縛り地蔵尊と云われるそうで、縄は毎年1回だけ縁日に解かれるそうです。
縛地蔵尊から広瀬川の岸辺に降りられる通路があります。
米ヶ袋の河原
米ヶ袋は袋状になっていて、広瀬川が蛇行しながら流れています。江戸時代は数段に分かれ町割された武家町だったそうです。
遊歩道が整備されていて、河原に降りられる場所もあります。
奥に見えるのは愛宕大橋です。
川のすぐ近くまで行くことが出来ます。川遊びも出来そうな緩やかな流れです。
カモが泳いでいました。
対岸は向山地区となり、断崖絶壁です。広瀬川の流れにより浸食された渓谷とでもいうべきでしょうか。
上流に進んでいくと、御霊屋橋が見えてきます。
木々の間を抜けていきます。右手には宮城県立工業高校があります。高校の敷地内には江戸時代、武士の弓の稽古場「三十三間堂」があったそうです。
河原を上りきると、「米ヶ袋十二軒丁」になります。
振り返ると奥には鹿落坂が見えます。霊屋下から向山につながる急な坂道です。鹿が降りてくる坂として鹿落坂という名前になりました。坂の歴史は仙台開府前にさかのぼるという歴史のある坂です。江戸時代には奥州街道から仙台城下町に入る脇道として使われていたようです。
御霊屋橋が近づいてきました。御霊屋橋を渡ると、伊達政宗が眠る霊屋下地区になります。
御霊屋橋
立派な親柱が迎えます。
橋の上から見た上流側の広瀬川です。広瀬川はここから先も蛇行を繰り返しています。
霊屋下の石塔が見えてきました。ここを上ると伊達家墓所です。霊屋下は伊達家の墓所が造営される前までは染師が住んでいたそうです。
"霊屋丁ともいう。仙台開府当初は経ヶ峯の西北東をめぐる広瀬川の流水を利用する染師職人が住んだが、霊屋(瑞宝殿)造営の際南染師町に移され、かわって御小人衆(藩の雑用をする下階級の役)が霊屋警衛のために配置された。経ヶ峯一帯は永く霊域とされたため、自然環境が良く保全されている。市制施行88周年記念"
瑞鳳殿の参道を上りはじめると、間もなく右手に「穴蔵稲荷神社」の看板が目に入りいます。
穴蔵稲荷神社
1660年ごろ、広瀬川の崖上の洞窟に青葉城に向けて建てられたことが名前の由来です。1835年に洪水で流されたことから現在地に移されています。
"伊達家は古くから稲荷神社を厚く信仰し居城近くに神社を祀り武運と繁栄を祈願した。
藩祖 政宗公は出陣の際には稲荷大明神に戦勝を祈らしめご神体を家臣に奉持させ、陣営に奉安せしめた。
又、夫人愛姫(陽練院)も守護神として深く信仰し、安産を祈願した。
この神社は初め少林城(政宗公の隠居所、後に若林城と称す)の近く荒井の里に祀って居たものを万治年間(1658-60)現在地より西側、広瀬川の崖の上「鈴ノ沢」と云う所、洞窟に青葉城に向けて建てられ「穴蔵稲荷大明神」と称した。
又、西に向かって居たため「夕日明神」とも言われていた。
その後 天保6年(1835)広瀬川の洪水で崖崩れに遭い社殿が流出したので下流の現在地に遷座した。"
細い暗い道を進みます。昼間なのに外灯が点灯していました。正式な参道ではなかったようです。
参道はこの赤い鳥居の下に階段があります。
現在の社殿です。
社殿の裏は崖になっていて、下には広瀬川が流れています。
瑞鳳殿の参道に戻ります。
鹿児島県人七士の墓
西南戦争に敗れて監獄に送られた西郷軍のうちで、獄中で亡くなって家族に引き取られなかった7人の墓があるそうです。瑞鳳寺境内の一般のお墓と一緒に埋葬されています。
杉林の中の参道を進みます。
正宗山瑞鳳寺
正宗山瑞鳳寺に立ち寄りました。伊達政宗の菩提寺として、寛永14年(1637)2代忠宗によって創建されました。御本尊の釈迦、文珠、普賢の3体は平泉の毛越寺から遷されたものだそうです。 伊達政宗の若年時に「正宗」と称したことから山号となったそうです。
瑞鳳殿に比べると余り派手ではありませんが、見どころの多いお寺です。
"当山は藩祖政宗公の菩提寺として寛永14年(1637)2代忠宗公によって創建された御一門格寺院である。御本尊は釈迦、文珠、普賢の三体で平泉毛越寺より遷したもの、梵鐘は寛永14年忠宗公の寄進によるもので県指定の文化財である。
本堂前の冠木門は3代綱宗公側室椙原のお品邸にあったもので俗に高尾門といわれている。 "
「下馬石」が山門の前にありますが、昭和46年までは坂の下にあったようです。藩主もこの先は馬を下りなければなりません。
山門は東京品川の伊達屋敷の門を模したものだそうです。
山門をくぐり、中に入ってみました。非常に緑が多い境内です。
鐘楼は昭和3年、今上陛下即位記念に建立したものだそうです。梵鐘は昭和50年のものですが、本堂前には寛永14年(1637)2代忠宗公が工匠早坂弥兵工に命じて鋳造した梵鐘が保管されています。
本堂前にある寛永14年(1637)に鋳造された重要文化財の梵鐘です。きれいに保存されています。
梵鐘には清岳和尚の銘があり、寛永14年の文字も見えます。
境内には寛永14年作の龍頭も置かれていました。こちらは旧瑞鳳殿の屋根にあったものです。
花塚
本源流武田朴陽及びその門下生が建てた花の供養塔「花塚」です。「花塚」の文字は斉藤実のもので、裏面には土井晩翠の詩が刻まれています。
高尾門
俗に高尾門と呼んでおり、3代綱宗公の側室椙原お品の邸にあったものだそうです。昭和37年に移転修築されました。
紋所は綱宗公のお手作で伊達家十種の一つ、雪薄の紋だそうです。
本堂は大正時代に再建されたものです。瑞鳳殿は戦災で焼失していますが、こちらの本堂は戦災を免れました。
本堂には見事な彫刻が施されています。
瑞鳳殿があまりにも有名なので見逃されがちですが、こちらの正宗山瑞鳳寺は見どころ満載でした。
伊達家の墓所に向かいます。
杉参道は江戸時代の面影を残す場所です。
参道の石垣も江戸時代のものだと思われます。
瑞鳳殿
伊達政宗の墓所「瑞鳳殿」は有料です。瑞鳳殿は戦災で焼失しましたが、昭和54年に再建されました。平成13年には改修が行われて、柱には獅子頭、屋根には竜頭瓦を復元して創建当時の姿となっています。
涅槃門です。樹齢数百年という青森檜葉が使われているそうです。この門だけでも豪華です。
瑞鳳殿に向かいます。
瑞鳳殿は豪華絢爛の一言に尽きます。圧倒されます。桃山様式の廟建築です。
伊達政宗公は瑞鳳殿の地下で眠っています。
瑞鳳殿の近くには資料館があり、貴重な資料や発掘調査の様子を知ることが出来ます。
2代忠宗公の霊屋「感仙殿」です。
3代綱宗公の霊屋「善応殿」です。
感仙殿の北側にある妙雲界廟です。9代周宗公、11代斉義公と側室芝姫の墓所があります。
4代綱村公以降は廟建築が廃止されて一定規格の板石塔婆に雨屋のみとなったそうです。総称も3代までの霊屋から御廟へと区別されるそうです。
瑞鳳殿の参道をくだり、片平方面に向かいます。
評定河原橋
評定河原橋をわたります。霊屋下は御霊屋橋とこの評定河原橋で市中と結ばれています。評定の名は江戸時代初期に仙台藩の評定所(裁判所)が置かれたいたことに由来します。
評定河原橋から広瀬川の下流側を眺めます。蛇行していることがよく分かります。
橋を渡ると、右側の窪地には評定河原野球場が見えてきます。ちょうど広瀬川の蛇行部分の延長にある窪地ですので、昔、広瀬川が氾濫して作った窪地だと思われます。
片平方面に坂道を上ります。広瀬川の蛇行に合わせるかのようにカーブした坂道です。
藤坂神社
坂道の途中に藤坂神社という小さな神社があります。昔、道路向にあった織物工場の織姫様が祀られていると云われています。
神社の横の階段は仙台七坂の一つという藤ヶ坂です。階段の上には藤棚があります。
坂の途中に「琵琶首公衆便所」というトイレがあります。この辺りは琵琶首丁という地名だったようです。昭和22年ごろ、向田邦子一家が父親の転勤で一時暮らした社宅が近くにあったようです。向田邦子自身は大学に通っていたため、東京で生活していました。
階段をのぼると片平になります。道路渡ると石垣積まれています。
石垣が道路側に丸く出ているところがあります。何か理由があるのでしょう。ここには仙台大神宮があります。
仙台大神宮
この地は藩開府以来の伊達家の繁栄を支えた茂庭周防の屋敷跡だそうです。
明治初期、伊勢神宮の御神徳発揚のために全国に本部を設置しました。仙台大神宮は奥州本部として明治14年(1881)に伊勢神宮から分霊されたのが始まりです。
拝殿の左奥には本殿が見えます。
拝殿の左を進むと本殿を参拝できます。
仙台大社から晩翠通り方面に向かいます。
馬上神蛎崎(ばじょうかきざき)神社
伊達政宗の愛馬五島の墓と神社を建てて、馬場の守り神としてはじまった神社です。
子供のジフテリア除けの信仰があって胡桃を奉納するそうです。
入り口の近くには「役行者石像」という像があります。飛鳥時代から奈良時代の呪術者である小角(おつの)の像です。山岳信仰である修験道の開祖とされています。平安時代に役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれるようになりました。
神社のとなりには良覚院丁公園があります。
良覚院丁公園
この公園の中には「良覚院丁庭園茶室 緑水庵」があります。庭園は塀に囲まれていて、中に入っていいものかわかりませんでした。
もとは良覚院という寺院の庭園があった場所だそうです。仙台市内では北山輪王寺の庭園と並ぶ池泉回遊式庭園だそうです。
公園から少し戻った信号機を渡り、片平丁のとおりに向かいます。片平丁は崖の上に開かれた通りで、昔は片側にしか建物がなかったことに由来します。現在は崖側にも建物が立ち並んでいます。
ヒマラヤシーダー(仙台高等裁判所)
仙台高等裁判所の敷地にある仙台市指定保存樹木のヒマラヤシーダーです。昭和50年の指定の際に樹齢約80年ですから、百年は超えていると思われます。
見事な樹形で、存在感があります。
原田甲斐邸跡
仙台高等裁判所は原田甲斐邸跡でもあります。この地域には大きな武家屋敷が多かったようです。
原田甲斐は伊達騒動の中心人物です。大老酒井邸で伊達安芸を切り、自身も同所で果てました。
高等裁判所の向かいには、片平丁が崖の上に開かれたことが分かる急な階段があります。評定河原球場に繋がります。
片平丁を東北大学方面に向かいます。
魯迅旧居跡
1904年、23歳だった魯迅は仙台医専(現東北大学医学部)に入学しました。最初の下宿先が、片平丁の「佐藤屋」だったそうです。旧仙台藩士の佐藤喜東治が営んでいた下宿です。
大正時代末期に改築されているようです。
魯迅旧居跡を過ぎると公園が見えてきます。崖の上にある片平公園です。
片平公園
崖の上の公園、片平公園です。広瀬川を眺めることが出来ます。奥には御霊屋橋が見えました。ここから先が米ヶ袋の袋の部分になります。
公園の正門付近には竹が植えられていて、綺麗な景観です。
東北大学
明治40年(1907)創立の歴史ある大学です。東京帝国大学、京都帝国大学に続く3番目の帝国大学です。大正2年(1913年)、日本の大学として初めて3名の女子の入学を許可しました。
正門は街の中心地ではなく、伊達政宗の霊屋「瑞鳳殿」の方角を向いています。伊達政宗への敬意の表れでしょうか。
東北大学の前を少し進むと、「鹿子清水通」という下り坂が右手にあります。坂を少し下った所に辻標が建っています。
鹿子清水(かのこしみず)
元櫓丁の「柳清水」、八幡町の「山上清水」とともに「仙台三清水」の一つに挙げられる「鹿子清水」です。鹿子清水通の辻標が立つ民地内にあります。以前は清水を庭の池に使っていたようですが、現在は利用されていないようです。
辻標には 「古くは、片平丁東端から南へ広瀬川の徒渉場に下る坂道で、北西に鹿にまつわる伝説を持つ鹿子清水があって、この町名の由来となった。南端河岸に縛り地蔵があり、刑場に使用された時期もあった」とあります。
片平丁の通りに戻り、東北学院大学方面に向かいます。
シップル館
東北学院大学の敷地内にあるシップル館です。明治19年(1888)築のコロニアル様式による典型的なアメリカ式住宅です。当時仙台にいた米国人宣教師デフォレストの住居として建てられました。その後にシップル神父が住んだことから「シップル館」と呼ばれるようになったそうです。
東北学院大学
東北学院大学の前を歩いていると「ラーハウザー記念東北学院礼拝堂」が見えてきます。昭和7年(1932)築のJ. H.モルガン設計のカレッジ・ゴシック洋式礼拝堂です。900名収容ということです。
礼拝堂正面にキリストの昇天(ルカ福音書24章51節)の場面を描いたステンドグラスが配置されています。当時、北日本唯一のオルガンとされた米国モーラー社のオルガンが講壇右手に残されています。講壇左側には1978年に導入されたドイツ・ベッケラート社のパイプオルガンがあります。20年ほど前に、パイプオルガンの音色を聴いたことがあります。素晴らしい音色でした。
東北学院大学土樋キャンパスの正門です。礼拝堂と同じくJ. H.モルガン設計の本館 が正面に見えます。大正15年(1926)築です。正門もモルガンの設計だそうです。
今回、散策して気付いたことは、伊達騒動に関する史跡が多く残っていることです。伊達藩にとって、存亡にかかわる大事件だったことを物語っています。
伊達騒動を乗り越え、伊達藩は新田開発や水路、海運により繁栄を遂げていきます。
「仙台藩ものがたり」(河北新報社)を読みました。
"仙台藩は豊かな藩だったそうです。それは新田開発を奨励したことに大きく起因します。貞山掘や北上川の付け替えなどにより、水の確保と水運でコメの生産と流通を確保したのです。石巻は江戸へコメを運ぶ港として機能していました。
しかし、その豊かさとコメ一辺倒の経済政策により、保守的な藩体質を生んでしまい、幕末の近代化について行かなかった面もあるそうです。"
杜の都と言われ、目覚ましい発展を遂げた仙台ですが、散策してみると江戸時代の名残りが多く残されています。伊達政宗なしには語れないのが仙台だと、改めて実感しました。
今回、散歩した地図です。