「前九年の役」で最後の砦として激戦地となった厨川柵、安倍館跡とされる盛岡市内の遺構を巡ります。
一般に「前九年の役(1051-1062年)」は、陸奥の豪族安倍頼時(頼良)と息子である貞任・宗任らが起こした反乱を、朝廷側の源頼義・義家親子が平定した戦役とされています。
陸奥守であった藤原登任、後任の陸奥守・鎮守府将軍として赴任した源頼義が、陸奥の支配により、黄金や馬を手中に収めたいという狙いがあったいう説もあります。
「前九年の役」概略
安倍氏は衣川柵に拠点を置く、陸奥土着のいわゆる蝦夷(えみし)の有力豪族でした。朝廷側との争いは、藤原登任との「鬼切部の戦い(1051)」での安倍氏側の圧勝に端を発します。藤原登任はこの戦いで陸奥守を更迭されました。
翌年(1052)、事態収拾を図るために源頼義が陸奥守として赴任します。同年、後冷泉天皇の祖母上東門院の病気快癒祈願の為、大赦が行われて安倍氏も罪を赦されました。安倍頼良は、この時に源頼義に遠慮(名が同音であることを)して頼時と改名しています。1053年には、源頼義は鎮守府将軍となります。
源頼義が陸奥守としての任期が終る1056年、阿久利川事件と呼ばれる謎(謀略説が疑われる)の事件により、朝廷と安倍氏の争いが再燃します。
阿久利川事件のとき、源頼義の配下にいた将、藤原経清(亘理権大夫)は安倍氏に帰属したと伝えられています。
1057年、一進一退の戦況が続く中、源頼義は津軽の安倍富忠らを見方に引き入れます。安倍頼時は、安倍富忠を説得するために津軽に向かう途中に攻撃を受けた傷がもとで戦死しました。貞任が安倍頼時の跡を継ぐことになります。
1057年の冬には源頼義が兵を上げ、黄海の戦いが勃発しました。安倍貞任は河崎柵(一関市川崎町)に兵力を集め、黄海(一関市藤沢町黄海)にて源頼義軍に圧勝します。源頼義と長男の義家は、七騎で辛うじて逃げ帰ったと伝えられています。
黄海の戦いで圧勝した安倍氏は衣川以南にも勢力を伸ばします。藤原経清が白札で徴税を行って、朝廷への納税が滞る事態になります。
その間、源頼義は兵力の増強を図りますが苦戦を強いられました。
1062年、源頼義は出羽国(秋田県)の豪族清原氏の援軍を得ることに成功して形勢が変わります。一気に源頼義・清原氏連合軍が攻め立てます。安倍勢は厨川柵(岩手県盛岡市天昌寺町)に籠城を図りますが、兵糧攻めによって陥落します。「前九年の役」は終焉を迎えます。
天昌寺(厨川柵擬定地)
天昌寺(山号「岩鷲山」)は盛岡市天昌寺町にあるの曹洞宗の寺です。厨川柵の擬定地とされています。厨川柵は安倍氏の拠点の中で最北部のものでした。陸奥の豪族安倍氏終焉の地です。天昌寺台地から安倍館を含む広範な地域が厨川柵だったようです。
貞任園というお堂があり、中には観音菩薩と思われる像が祀られていました。
天昌寺は台地上のさらに少し小高い場所にあります。
天昌寺の門から反対側の国道46号線沿いには、「厨川柵」の案内板が設置されています。
"『厨川柵』
陸奥の豪族安倍氏は、平安時代の後期になると、衣川柵を中心に北上川沿岸や、その他重要な場所に城柵を設け、最北端の拠点である「厨川柵」には、宗嫡の貞任を配した。
天喜4年(1056)、前九年の役が起こったが、安倍氏の勢力が強く、国司軍(源頼義軍)は、平定することができず、出羽の豪族清原氏の来援によって、安倍氏軍は、次第に退き、この「厨川柵」に全勢力を挙げて、最後の決戦を行ったが、敗れて滅亡した。
康平5年(1062)秋のことである。
厨川柵とは、安倍館、権現坂、天昌寺台地を抱えた広大な地域とされ、昭和32年にこの台地の一部を発掘調査した時には隍(ほり)跡、土器、鉄片、古銭(宋銭)等が発掘された。
文治5年(1189)源頼朝が、奥州藤原氏討伐の軍を起し、自ら七軍を率いて、平泉を攻めおとし、厨川柵まで進駐し、一週間程滞在をした。
この戦功によって、伊豆の工藤小次郎行光に、岩手郡を給した。
工藤氏は、安倍館に居館を構え、南北朝期、室町期を経て、南下した南部氏の勢力に臣従して、栗谷川を称した。
天正20年(1592)安倍館は、豊臣秀吉の命によって破却された。
寺伝によれば、天昌寺は、工藤氏の庇護を受け、栗谷川光成の時代に曹洞宗となり山号を岩鷲山と号した。
天昌寺の観世音菩薩は、この工藤氏代々の持仏で、明治年間に納められたと伝えられている。
昭和55年11月 盛岡市教育委員会 天昌寺"
案内板近くの杉、盛岡市景観重要樹木で推定樹齢460年とのことです。
"天昌寺の由来
天昌寺は、前九年の役(1051-1062)の時、安倍氏が最後の拠点として戦った厨川柵南端の枢要地区に建っている。安倍氏がこの柵にいたころは、天台宗天照寺と号し、柵内の祈願所(菩提寺)であったと言い伝えられているが、安倍氏が滅んだ後は、長年の戦で亡くなった人たちの御霊を弔っていたものと思われる。
文治5年(1189)源頼朝が、平泉の藤原泰衡を討った時、大きな手柄をたてた工藤小二郎行光が、岩手郡三十三群を領地として与えられたので、その後、工藤氏がこの寺を護ってきたと言われている。
慶長14年(1609)盛岡城を中心とした近代城下町ができたころ、工藤氏は姓を栗谷川と改めて、南部氏の家臣となっていたが栗谷川八兵衛藤原光成(1684入寂)の時、 物賛関逸大和尚 (1649示寂)を開祖とし、曹洞宗に改宗し、山号を巖鷲山とし、本尊に釈迦牟尼佛を祀って、廃れていた寺を再興した。その後、寺号は天照から天正(性)、そうして、いつのことからか現在の「天昌」となった。
寺が再興されて約200年経った文政6年(1823)、衆寮からの出火で総てのものを焼失したので、由来を知る資料がほとんど無く開山の年も不明である。
火災から9年経った天保3年(1832)に古材で前の本堂を再建したが、庫裡は天保の大飢饉(3年から9年まで)のため工事が遅れ天保13年にようやく落成された。
位牌堂の西側の深い沢は、厨川柵の隍(からほり)で、昔、このような隍が縦横に走っていた様子が、今も天昌寺町や北天昌寺町地内に見ることができる。「厨川柵擬定地」として埋蔵文化財含蔵地に指定されている天昌寺周辺台地の一部は、すでに発掘調査が終了しているが、遺跡の大部分は今も地下に静かに眠っている。
昭和56年春建之"
案内板にある隍(からほり、堀)のあとです。
駐車場横にも水路がありますが、堀の跡かもしれません。
飢饉の慰霊供養塔です。
天昌寺裏手の国道46号線です。右手に見えるのが先ほどの杉です。
国道46号線を北上川方面へ向かうとJRを跨ぐ跨線橋があります。奥の木が生えているところが天昌寺です。線路は人工的な掘割りだと思われます。
途中、小さな川が流れています。
そこを跨ぐ橋は前九年橋でした。
振り返ると、勾配があることがわかりました。天昌寺台地です。
坂を下ると、五差路の交差点があり、手前を左手に折れます。この交差点にも館の名残の地名「館坂」が残っています。
館坂交差点をそのまま進めば、北上川にぶつかります。橋の名前は「館坂橋」。
敵見ヶ森(かたきみがもり)
天昌寺(厨川柵擬定地)から国道46号線を安倍館遺跡(厨川柵跡・厨川城跡)に向かうと、五差路にぶつかります。五差路の最初の道を左折して少し進むと、右手に敵見ヶ森があります。
前九年の役で安倍軍が櫓を組んで見張ったと伝えられる場所です。「前九年二丁目」バス停が近く、前九年郵便局の目の前です。
盛岡市保存樹木で推定樹齢160年の「敵見ヶ森稲荷のケヤキ」があります。すぐに目に着く場所でした。元は狐森稲荷神社(敵見ヶ森稲荷神社)がありましたが、現在は盛岡市北山にある「榊山稲荷神社」に合祀されたようです。
小さな案内板が設置されています。
"『敵見ヶ森(かたきみがもり)』
この小山の辺りは、前九年の役(1051-1062年)のさい、安倍軍が櫓を組み敵を見張っていた場所と言われている。
その戦いのさなか安倍貞任の奥方がたくさんの女たちを連れて○に登り、歌い踊り味方を励ましたと言い伝えられている。
盛岡観光コンベンション協会"
先ほどの館坂交差点の五差路に戻り、安倍館遺跡に向かいます。北上川と並行した坂道をのぼります。
安倍館遺跡(厨川柵跡・厨川城跡)
『陸奥話記』に記される「嫗戸柵」の有力地とされています。
北上川の台地の縁に立地しています。川からの高低差があり、自然の要塞を形成しています。
住所も「安倍館町」です。
"安倍館遺跡(厨川柵跡・厨川城跡)
康平5(1062)年、北上盆地の覇者安倍氏が滅亡した厨川柵跡と伝えられる。安倍貞任をはじめ一族の勇戦の哀史は今も多くの言伝えとして残っている。
一方発掘調査では、この遺跡が中世工藤氏の居城厨川城跡と確認されている。厨川城は文治5(1189)年源頼朝の御家人工藤行光が地頭に任じられて以来、天正20(1592)年の廃城に至るまでの400年間、岩手郡を治める拠点であった。
今も残る深い堀は工藤氏時代のもので、図のように7区画に分かれ、中心部は本丸と呼ばれている。
この遺跡は、往時の面影を残し、盛岡の中世を語る数少ない重要な遺跡である。"
南から、南館、中館、本丸、北館、外館、匂当館が連なっていたようです。
現在は住宅地になっていますが、今でも堀の跡が残っています。空堀は幅が10m以上の場所もあり、深さは深いところで7~8mはあるようです。
「厨川八幡宮」は本丸に祀られた神社です。
八幡神社と言えば、八幡太郎義家が祀られるほど、源氏との結ぶ付きが強い神です。工藤氏の居城だったことに由来しているのだと思われます。
本丸の南側にある区画には、安倍館稲荷神社がありました。
稲荷神社の横には、安倍貞任と宗任を祀った「貞任宗任神社」の祠がありました。
本丸の八幡宮だけでなく、滅ぼされた安倍氏を祀り、安倍氏の遺構を残そうという意思が働いいるように思えます。
発掘調査でも厨川柵の詳細や場所ははっきり分かってはいません。実際にこの地にを巡り、安倍氏の痕跡が埋まっていることを感じることが出来ました。
地図です。