gon1810DSC09938鎌倉宮(別名:大塔宮、おおとうのみや・だいとうのみや)は、後醍醐天皇の皇子である護良親王(もりながしんのう)を祭神とする神社です。鎌倉時代は「東光寺」というお寺でした。


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”後醍醐天皇の皇子である護良親王を祭神とする神社です。
 護良親王は、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の動きに呼応して幕府軍と戦うなど、貢献しました。
 幕府が滅亡し天皇親政が復活(建武の新政)すると征夷大将軍に任じられましたが、その後足利尊氏と対立して捕えられ、二十八歳で非業の最期を遂げました。社殿の後ろ手に残る土牢が親王最期の地と伝えられています。
 十月には境内で薪能が催されます。―鎌倉市―”


護良親王は、6歳の頃に出家して梶井門跡子房「大塔」に入室しました。大塔宮と呼ばれる由縁です。比叡山延暦寺のトップである天台座主の地位に20歳で就いています。天台座主となっても、武芸を好んで鍛錬に励んでいたと伝えられています。

鎌倉幕府倒幕に貢献した後、足利尊氏との対立から現在の鎌倉宮がある東光寺に幽閉されました。明治2年(1872)、明治天皇の勅命によって護良親王を祀るための鎌倉宮が造営されました。


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村上社(身代りさま)

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拝殿の右手奥にある村上社は護良親王の忠臣村上義光を祀ります。護良親王が追い詰められたとき、親王の鎧を着て身代わりになり切腹しました。 村上義光(身代りさま)の木像があり、自分が治したいところをなでます。

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”撫で身代りの由来
 村上義光公は護良親王の忠臣にして元弘3年(1333)正月吉野城落城の折、最早これまでと覚悟を決めた護良親王は、別れの酒宴をされました。
 そこへ村上義光公が鎧に16本もの矢を突き立てた凄まじい姿で駆けつけ、親王の錦の御鎧直垂をお脱ぎいただき自分が着用して「われこそは、大塔宮護良親王ぞ、汝ら腹を切る時の手本とせよ」と告げて腹を一文字に掻き切り、壮絶な最後をとげ、その間に親王は、南に向かって落ちのびました。
 このように身代りとなされた村上義光公を境内の樹齢103年の欅の大木にて彫り上げ「撫で身代り」として入魂致しました。”



厄割り石
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gon1810DSC09929毎日の生活の中で受けた「厄」を払う厄割り石です。
1.「かわらけ」に息を吹きかけ、自分の中にある厄をのせます。
2.「厄割り石」めがけて、「かわらけ」投げ、厄を割ります。


背景に悲しい歴史がある鎌倉宮ですが、明治天皇の勅命によって祀られるようになった祭神の護良親王は篤い信仰を集めています。