前回のエントリー「(盛岡散策-1)中ノ橋通、葺手町、紺屋町と中津川界隈を散策。」に続いて、中津川(上の橋、中の橋、下の橋)の右岸とビクトリアロードの散歩について紹介します。

ちなみに右岸左岸とは、川の下流に向かって右側が右岸、左側が左岸です。

盛岡城跡公園 石垣


上の橋から下の橋までは何度か歩いたことがあります。ここも盛岡の良さを感じられる場所の一つではないでしょうか。先日読んだ盛岡を舞台にした小説「毘沙門叩き」の中で、主人公が上の橋から中の橋までの遊歩道を歩く場面があります。小説の中で細かく情景が描かれていて、久しぶりに散策してみたくなりました。
毘沙門叩き
毘沙門叩き


≪上の橋・擬宝珠≫
慶長2年(1597年)南部第27代藩主利直が盛岡城下を建設。上の橋は慶長14年(1609)に架けられています。橋は何度か流失して。現在の橋は昭和になって架け替えられたものです。
擬宝珠(ぎぼうしゅ・ぎぼし)は慶長14年のものが8個、慶長16年のものが10個あるそうです。青銅擬宝珠は国内でも珍しいそうです。
上ノ橋・擬宝珠


(ここから本町方面に進み信号を右折すると、左手に中華そばで有名な「中河」があります。メニューは「中華そば」だけというザ・中華そばの店です。)



中津川右岸を岩手県民会館方面に進むと、対岸に「深沢紅子 野の花美術館」が見えます。
深沢紅子 野の花美術館

与の字橋に通じる道路を渡ります。


≪新渡戸稲造胸像≫
高田博厚 作。新渡戸稲造の印象が自分の記憶と少し違いました。晩年のお顔をモデルにしているのでしょうか?世間の無理解と戦わなければならなかった新渡戸稲造の 苦悩と強さを表現した作品だそうです。
新渡戸稲造像

この胸像を起点としてビクトリアロードとなります。

≪ビクトリアロードへようこそ≫
説明書きには
「ビクトリアロードは「新渡戸稲造胸像」から中津川沿いに盛岡市役所、盛岡城跡公園を経由して「新渡戸稲造生誕の地」に至る延長830mの道です。盛岡に生まれた新渡戸稲造博士は、カナダ・ビクトリア市で亡くなりました。この縁で、盛岡市とビクトリア市は昭和60年5月に姉妹都市の提携を結びました。ビクトリアロードは、平成7年の姉妹都市提携10周年を記念して名づけられました。」
とありました。
ビクトリアロード

ここからの市役所の裏手を通り抜けます。


≪笛吹き少年像≫
岩手県一戸町出身の舟越保武の作品。盛岡市役所の裏庭にあります。
笛吹き少年像



≪宮沢賢治 歌碑≫
「川と銀行 木のみどり 町はしづかに たそがるる」という宮沢賢治の歌碑がありました。明治44年建設の岩手銀行中ノ橋支店(国重要文化財)のことを賢治が気に入っていたようです。
宮沢賢治詩碑


対岸には茣蓙丸の土蔵群が見えます。
ござ九 土蔵群

テレビ岩手の裏庭に進みます。


≪杏(あんず)像≫
これも舟越保武の作品。杏像があります。両手に杏の実を持っている少女の像です。
杏


杏像の横には歌碑がありました。
歌碑


振り返れば、中の橋の先に岩手銀行中ノ橋支店(国重要文化財)が見えます。
中の橋


中の橋に通じる道路を渡ります。


≪ガス燈≫
説明板によると
「わが国における都市ガス事業の始まりは、明治5年(1872)、横浜の外人居留地にガス燈をともしたのが始まりである。ガスの利用については、これより17年前、南部藩士の手により発明されている。当時の文献によれば、安政2年(1855)、南部藩医師・島立甫(しまりゅうほ・玄燈)が、江戸亀戸の自宅において、コールタール製造の副産物として発生する石炭ガスに点火し、照明として利用した。同じ頃、水戸藩に招かれ、那珂湊に反射炉を製造した南部藩士・大島高任(おおしまたかとう)が、コークス製造の副産物利用としてガス燈をともしたという。ガス燈事業に始まった近代都市ガス産業の先駆者が南部藩士であることは、盛岡市民にとって興味深いことである。」
とありました。
ガス燈の先駆者が南部藩士だったというこです。盛岡市民というより岩手県民にとっても興味深いことです。
ガス灯
ガス灯の由来



緑豊かな盛岡城跡公園を右手に見ながら下の橋方面に進みます。きれいなベンチが並んでいます。このベンチに座り、川を眺めながら読書するものいいかもしれません。
ベンチ



≪平和記念像≫
堀江赳 作。芝生広場の一角に「平和記念像」があります。「昭和の初め、溺れかけた教え子を助けようとして不幸にも亡くなってしまった小国テル子先生の碑」とありました。
平和記念像




≪瀬川正三郎像≫
これもまた舟越保武の作品。中学校で柔道を指導したのち、昭和6年に市内で整骨院を開業したそうです。小中学生や困った人は無料で治療を施したそうです。人望が厚かったことから、戦後は盛岡市消防団団長や盛岡市体育協会会長などを歴任したそうです。
瀬川正三郎像


この胸像そばには「毘沙門橋」という橋があります。「毘沙門叩き」を読んでいて気付いたのですが、蝦夷征伐の戦果から毘沙門天の化身とされた坂上田村麻呂に由来して、岩手には毘沙門天を祀っているところや毘沙門天と名の付く場所が多いと思います。この本を読んでいなければ気にも掛けない歩行者専用の橋です。
毘沙門橋


右手には盛岡城跡の石垣が見えます。
盛岡城跡石垣盛岡城跡石垣


下の橋です。
下ノ橋

下の橋に通じる道路を斜めに渡ります。


≪賢治清水≫
賢治清水いわれには
「宮沢賢治が大正6年より盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)在学中に弟清六と2人で大沢川原一丁目の玉井家に下宿していた当時、宮沢賢治が使用していた共同井戸が右前方下駐車場に現存。この井戸の水脈を10メートル程ボーリングし、大変良い清水に恵まれ「賢治清水」と命名された。」
とありました。
隣には宮沢賢治の「ちゃぐちゃぐうまこ」 の詩碑が並びます。この近くに下宿していた宮沢賢治の詩が自筆を基に刻まれています。
賢治清水
宮沢賢治ゆかりの地
「ちゃぐちゃぐうまこ」 の歌碑


(ここの近くには3種類の手打ちそばが食べられる「蕎麦喰い処 やまや」があります。細切りでコシのあるそばは大変美味しいそば屋さんです。)



≪下の橋・擬宝珠≫
元々、下の橋には擬宝珠はなく、中の橋が洋橋に架け替えられた際に中の橋のものを下の橋に移築されたという説があるようです。

下ノ橋 擬宝珠

説明の看板板には
「慶長3年(1598)、豊臣秀吉から盛岡城の築城を正式認可された南部信直は、築城普請と共に市街整備の一歩として城下のほぼ中央を流れる中津川に3橋を架設した。
慶長14年(1609)に上ノ橋、同16年に中ノ橋、翌17年には下ノ橋が完成し、上ノ橋と中ノ橋に利直在銘の青銅擬宝珠が取り付けられた。
橋は、その後幾度か大洪水のために落橋し修復架橋されたが、その時に流失した擬宝珠もあり、寛文(1661-1673)と享保(1716-1736)年間にそれぞれ復元されたと推定されている。現在の下ノ橋の擬宝珠は、明治43年(1910)の大洪水後、中ノ橋が洋式架橋されたことから、大正元年(1912)11月に中ノ橋から移されたもので、上ノ橋の擬宝珠と同様藩政期の文化を表象するものである。
南部家所伝によると、南部家第12代当主遠江守政行が京都在番中に勅許を得て、加茂川三条大橋の擬宝珠を写し、これを領国三戸城下の熊原川の橋につけ黄金橋と称したという。慶長年中の城下建設にあたって、この擬宝珠を鋳直して中津川の上ノ橋・中ノ橋2橋に取り付けた物である。」
とありました。
下の橋 擬宝珠



≪新渡戸稲造生誕の地≫
橋を渡り直進して左手に新渡戸稲造生誕の地があります。
この場所には朝倉文夫 作の銅像があります。没後50年を記念して市民の浄財で建立されたものだそうです。
新渡戸稲造 銅像

新渡戸稲造の生誕の地でビクトリアロードは終点となります。

現在(2011年3月初旬)、中津川沿いの遊歩道は改修工事が行われており、歩きやすい遊歩道に生まれ変わると思います。

ここから脚を延ばせば、鉈屋町の町家にも歩いて行ける場所です。鉈屋町界隈も街歩きには楽しい場所であり、今度、ゆっくり歩いてみたいと思います。


緑の線が今回の散策路です。