江ノ島電鉄にはトンネルが一つだけあります。長谷駅と極楽寺駅の間にある「極楽洞(極楽寺トンネル)」です。鎌倉市景観重要建築物、土木学会選奨土木遺産に指定されています。鎌倉七切通しのひとつである「極楽寺坂」をトンネルで通過します。
海岸方面から極楽寺方面に抜ける道路は鎌倉七切通しのひとつとして有名な「極楽寺坂」があります。
源頼朝は、防御の面から鎌倉に幕府を開いたと言われています。南は海、北東西は山に囲まれた地形だからです。問題になるのは物資の運搬でした。山などを掘削して切り開いた道が「切通し(きりとおし)」です。 亀ヶ谷坂、化粧坂、巨福呂坂、大仏切、極楽寺、朝夷奈、名越は鎌倉七七切通しとして重要な運搬路だったようです。
新田義貞が鎌倉を攻めた際、頑強な木戸で切通しを閉ざし、侵入を防ぐなどの攻防があった「太平記」に記されています。
極楽寺の近くに案内板がありました。
"極楽寺切通
極楽寺開山忍性が開いた道と伝えられ、京都・鎌倉間の往還路だった。鎌倉・南北朝時代の武将・新田義貞は、元弘3年(1333)5月、一族を集めて討幕の挙兵をした。各地の合戦で幕府軍を撃破し、鎌倉に迫ると、義貞は軍勢を三隊に分け、極楽寺切通、巨福呂坂、化粧坂の三方から攻めた。一方、幕府軍も三方に手分けして防戦。「太平記」(巻第十 稲村崎干潟と成る事)はこの合戦のありさまを次のように記している。
さる程に、極楽寺の切通しへ向はれたる大館次郎宗氏、本問に討たれて、兵ども片瀬・腰越まで引き退きぬと聞えければ、新田義貞、逞兵二万余騎を率して、二十一日の夜半ばかりに、片瀬・腰越をうち回り、極楽寺坂へうちのぞみたまふ。明け行く月に敵の陣を見たまへば、北は切通しまで山高く路けはしきに、木戸をかまへかい楯を掻いて、数万の兵陣を並べて並みゐたり。(引用文献 新潮日本古典集成 新潮社 昭和55年)
鎌倉市教育委員会
鎌倉文学館"
極楽寺坂の途中にある虚空蔵堂
上るにつれて切り通しだと分かるような景色になりました。
江ノ電は、切り通しの箇所をトンネルで通しています。唯一のトンネルとなっています。
"極楽洞は、『江ノ電』の愛称で親しまれている江ノ島電鉄株式会社が所有する瓦造りの坑門で、右手の桜橋から見ることができます。アーチの頂部に2箇所の要石を備えたデザインは、全国的にも珍しいもので、今なお建設当時の原型をとどめています。
江ノ電が極楽洞を走り抜ける景観は、古都鎌倉に近代の息吹を伝えた電気鉄道の歴史を偲ばせます。"
"江ノ島電鉄(極楽洞・千歳開道)
江ノ島電鉄は明治35年(1902年)に開業し、ほぼ当時の路線で営業している電車としては日本で最古である。
極楽洞は、江ノ島電鉄唯一のトンネルで明治40年(1907年)竣工、藤沢方には極楽洞、鎌倉方には千歳開道と表示されており、建設当時の煉瓦張りがそのまま残されている。
平成22年(2010年)、鎌倉市の景観重要建築物などに指定されている。
延長 209m、 高さ 5.285m、 幅 3.940m"
極楽寺駅です。
古都鎌倉と言われますが、古都の歴史を今でも様々な場所に残しています。