gon11DSC01518宮城県石巻市にある日和山(ひよりやま)は60メートルほどの標高ですが、見晴らしは最高です。江戸時代、米の積出港としてにぎわった北上川河口が眼下にあり、出航によい風向きや潮の流れなど「日和」を見る場所だったようです。春には桜の名所として花見客で賑わう、石巻のシンボルともいえる山です。石巻に来たら是非立ち寄りたい場所です。


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”日和山
 日和山は標高60.4メートル。山上に延喜式内社である鹿島御児神社が鎮座し、中世には葛西氏が城館を構えていたと伝えられ、平成9・10年の発掘調査では、拝殿の北側から空堀の跡などが見つかりました。眼下に見える北上川の河口は、江戸時代には仙台藩の買米制度によって集められた米の積出し港として、千石船の出入でにぎわいました。日和山は出航に都合がよい風向きや潮の流れなど、「日和」を見る場所であることから、その名が付いたと考えられています。
 元禄2年(1689)、松尾芭蕉と曽良が石巻を訪れた時の『曽良旅日記』に「日和と云へ上ル 石ノ巻中不残見ゆル 奥ノ海 遠嶋尾駮の牧山眼前也 真野萱原も少見ゆル」と日和山からの眺望が記されています。
 また、『奥の細道』には『…石の巻といふ湊に出ス こかね花咲とよみて奉りたる金花山海上に見渡シ 数百の廻船入江につとむひ 人家地をあらそひて竈のけふり立つゝけたり』と表現されています。「こかね花咲」とは、万葉集第18ある大伴家持の「天皇の御代栄えむと東なる 陸奥山に金花咲く」の歌をふまえています。天平産金地は、涌谷町の式内社黄金山神社の御神体として崇められた、黄金山を中心とした地域であったのですが、芭蕉の頃には金華山が産金地であると考えられていました。
 鹿島御児神社の鳥居をくぐり、拝殿に向かう階段を上った右側に、延享5年(1748)に雲裡房の門人である棠雨を中心として建立された「雲折〱人を休める月見かな」という芭蕉の句碑があります。
 また、日和山には石川啄木、宮沢賢治、志賀直哉、斎藤茂吉、種田山頭火、釈迢空(折口信夫)などの文人が訪れており、日和山公園には多くの歌碑や句碑などが建立されています。”


gon11DSC01444東日本大震災では数えきれない人が避難した命の山と紹介文がありました。街が津波に飲まれ、火災で燃え上がる様子をこの山から見るしかなかったのです。その心情は計り知れないものです。


旧北上川河口
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gon11DSC01446旧北上川の両岸は、江戸時代の船運基地として栄えました。現在も石巻の中心市街地になっています。
中瀬には石ノ森萬画館が建てられています。東日本大震災で被災しましたが、全国からの支援や励ましによって2012年11月17日に再開されました。復興のシンボル的な存在です。




鹿島御児神社(日和山神社)
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gon11DSC01443日和山公園に鎮座する鹿島御児神社です。由緒をみると「平安時代の『延喜式神名帳』所載式内社で国史現在社として最も由緒深い神社」という紹介がありました。御祭神は、武甕槌命・鹿島天足別命の親子二神です。
鹿島天足別命は香取の神宮祖神の御子神と共に海路で奥州へ下向して東夷征伐と辺土開拓にあたることになりました。石巻の沿岸に到着した際に錨が石を巻き上げたことが、地名の由来であるという言い伝えがあるそうです。
鳥居が太平洋に向いています。




文人・歌人の石碑・句碑
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gon11DSC01453『大漁の旗あぐる船より呼ぶこゑにこたふる 如して海鳴りの音「みちのく(石巻)」』
木俣修が仙台に在住の頃に石巻を訪ねて成したもの(この歌碑は南浜町にあったが東日本大震災で被災して移設されたもの)


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gon11DSC01483『われらひとしく丘に立ち 青ぐろくしてぶちうてる あやしきもののひろがりを 東はてなくのぞみけり そは巨いなる鹽の水 海とはおのもさとれども 傳へてききしそのものと あまりにたがふここちして ただうつつなるうすれ日に そのわだつみの潮騒の うろこの國の波がしら きほひ寄するをのぞみゐたり」
宮沢賢治の歌碑、修学旅行で日和山を訪れています。川蒸気で北上川を下って、生まれて初めて海を見たのがこの地だそうです。初めて見た海に興奮した賢治の心情が現れているようです。



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gon11DSC01485『わたつみに北上川の入るさまのゆたけきを見てわが飽かなくに』
斎藤茂吉が昭和6年に石巻に訪れた際の一首です。




gon11DSC01488『北上川の盡きるところのかすみには なおとまどいの 青き波かな。』
新田次郎が礼状にしたためた作


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gon11DSC01498 『砕けては またかへしくる大波の ゆくらゆくらに胸おどる洋』
明治35年、盛岡中学校5年生の石川啄木が修学旅行で訪れた際に詠んだ一首



gon11DSC01499『海のおも いよいよ青しこのゆふべ 田しろあじしま かさなりてみゆ』
国文学者・民俗学者の折口信夫が詠んだ一首




松尾芭蕉・曽良 銅像
gon11DSC01478『奥の細道』には『…石の巻といふ湊に出ス こかね花咲とよみて奉りたる金花山海上に見渡シ 数百の廻船入江につとむひ 人家地をあらそひて竈のけふり立つゝけたり』と表現されています。
平泉に向かう途中に石巻に立ち寄ったようです。




川村孫兵衛重吉銅像
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gon11DSC01460治水事業で、仙台藩の発展に功績を残した川村孫兵衛重吉の銅像です。七北田川の開削、木曳堀の開削、北上川の改修、石巻河口港の整備など、石高を大きく向上させ、海運を発達させた功績は多大です。水不足だった仙台城下を潤わせた四ッ谷用水の原型を作ったのも重吉だそうです。

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“川村孫兵衛重吉
 天正3年(1575)長州(山口県)に生まれる。毛利家に仕え、20代前半、伊達政宗の家臣となる。
 治山治水に優れた技術を発揮、政宗の命令で北上川改修工事の責任者となる。工事は元和2年(1616)から寛永3年(1626)に至り、工事費ねん出のため自ら借財、あるいは工事現場に泊まり込むなど、筆舌に尽くせぬ労苦を重ねる。
 この大改修により石巻から盛岡に至る舟運が開かれ、葛西家滅亡後寒村に過ぎなかった石巻は一躍米の集散地となる。河口周辺には仙台、盛岡、一関、八戸各藩の米蔵が立ち並び、江戸へ米を運ぶ千石船が往来繁栄を極めた。治水に伴って流域では32万石余の新田開発も行われ、地域の発展に計り知れない恩恵をもたらす。
 工事完成後は石巻に住み、慶安元年(1648)、74歳で世を去る。
 河北新報社は石巻市制施行50周年に当たり、港町石巻の基礎を築いた大恩人としての業績を後世に伝えるためここに川村孫兵衛重吉の銅像を建立、石巻市民に寄贈する。
 昭和58年(1983)8月1日
 河北新報社
 銅像題字 一力一夫 河北新報社社主・会長
 銅像制作 翁 観二”



夕焼け
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gon11DSC01504日和山から石巻港方面に陽が沈んでいきます。工場の煙突からは上記の煙が見えています。



日和山公園に多くの文人などが訪れていたことに驚きました。石巻の発展は、仙台藩の発展に大きく関係しています。旧北上川を眺めていると往時の賑わいを感じることが出来ました。これからも石巻のシンボルとして、多くの人が訪れる場所だと思います。