東京にある石川啄木ゆかりの地を巡ってみました。前編は上野・浅草・銀座です。後編では文京区(湯島、本郷、小石川)を巡ります。地図は最後に紹介します。
今年は石川啄木が27歳の若さで亡くなってから100年となります。石川啄木没後百年記念事業が各地で開催されるようです。特に出身地である岩手県盛岡市では実行委員会を立ち上げ、各種記念事業が計画されています。
啄木は南岩手郡日戸(現在の盛岡市玉山区日戸)に生まれ、渋民村や盛岡市内で暮らします。最初の上京で挫折し、渋民村での生活を経て北海道に渡り、再び夢を追って東京に戻ります。
東京で暮らした22歳から亡くなる27歳までの旧居などゆかりの地と周辺の旧跡などを巡ります。
上野編
上野駅は啄木の有名な短歌に登場します。上野駅に降りると、思い出してしまう短歌です。
上野駅 石川啄木歌碑
東北本線の終着駅である上野駅の15番線、車止め前に歌碑があります。車止めがあると、終着駅だなあと感慨深い想いが湧いてきます。
啄木は上野駅に故郷のなまりを聞きに行き、望郷の念に浸ったのだと思います。明治時代には既に上野駅が北の玄関口だったのです。
ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく
東北人にとって上野駅は終着駅であり、新しいスタートの地でもあったと思います。平成3年(1991)、東北新幹線が東京駅まで延伸されるまでは、東京の北の玄関口でした。
上野駅の広小路口に出ます。
高架の横に歌碑があります。
「あぁ上野駅」歌碑(上野広小路口) ※寄り道
こちらの歌碑は啄木に通じるものがあります。高度成長期に集団就職で上京したいわゆる"金の卵"の応援歌が「ああ上野駅」(作詞 関口義明、作曲 荒井英一、唄 井沢八郎)という歌だったようです。
「あぁ上野駅」の歌詞にもなまりが出てきます。
上野はおいらの心の駅だ
配達帰りの自転車を
とめて聞いてる くになまり
上野駅前通り商店街 石川啄木歌碑
「あぁ上野駅」歌碑の先にある上野駅前通り商店街の入り口に啄木の歌碑があります。上野駅15番線と同じ短歌が刻まれていました。
浅草編
浅草には啄木本人や家族の葬儀場があります。東京メトロ銀座線「田原町駅」周辺を巡ります。
朝日信用金庫ことぶき支店 浅草文学散歩
「浅草文学散歩」というポスターが飾られています。文人10人が記した浅草を紹介したマップです。
マップの横には以下のように書かれていました。明治の浅草は相当に賑わっていたのだと思います。
"浅草はかつての文化の中心地であり、その華やかさと賑わいで、多くの著名人を魅了しました。旧き良き風情を残すこの街で、文人が記した浅草を散策してみてはいかがでしょう。"
夏目漱石と池波正太郎の間に挟まれて石川啄木の名前があります。
明治23年(1890)に建てられた凌雲閣(通称・浅草十二階)という12階建てのタワーを謳った短歌が紹介されていました。
凌雲閣は赤レンガづくりの八角形のタワーで、高さ52mだったそうです。日本最初のエレベーターが設置されていたとか。啄木も凌雲閣からの眺望に魅了されたのでしょう。
浅草の凌雲閣のいただきに
腕組みし日の
長き日記かな
他にも江戸川乱歩、半村良、三島由紀夫、川端康成、サトウハチロー、高見順、山本有三の作品と浅草の名所が紹介されています。
朝日信用金庫ことぶき支店から、少し寄り道をします。
はなし塚 ※寄り道
本法寺というお寺の境内に「はなし塚」があります。「はなし塚」の写真を撮っていませんでした...。(^^ゞ 写真は紹介の看板です。
昭和16年に建立された塚です。戦時下にあった当時、時局にあわないとされた演題を落語界では禁演落語五十三種として自粛を強いられたそうです。
禁演落語を弔うために塚を建て、台本等も収めたそうです。
当時の噺家たちの風刺とも言える塚だと思います。
「等光寺」石川啄木葬儀場
啄木本人、母、長女、次女の葬儀場が「等光寺」です。このお寺は啄木の親友である土岐哀果(善麿、歌人・国語学者)の生家です。 土岐哀果は困窮していた病床の啄木を助けるために歌集「悲しき玩具」の出版に尽力します。「悲しき玩具」は啄木が息を引き取った2カ月後に出版されました。「悲しき玩具」というタイトルは土岐哀果によるものです。
啄木の葬儀では土岐哀果の兄が導師を務めています。
右の門柱には「等光寺」、左には「土岐」という表札がありました。
境内には啄木の歌碑があります。啄木生誕70年にあたる昭和30年に建立された歌碑です。
啄木の銅像が配されています。雨が流れた跡によるものか、啄木の目から涙が流れているように見えました。
浅草の夜のにぎはひに
まぎれ入り
まぎれ出で来しさびしき心
歌碑の横に案内板があります。
"石川啄木は明治19年(1886)岩手県に生まれる。はじめ明星派の詩人として活躍した。しかし曹洞宗の僧侶であった父が失職したため一家扶養の責任を負い、郷里の代用教員や北海道の新聞記者を勤め、各地を転々とした。
明治41年(1908)、文学者として身を立てるため上京して創作生活に入り、明治42年からは東京朝日新聞の校正係となった。小説や短歌の創作に励み、明治43年12月には処女歌集「一握の砂」を出版する。生活の現実に根ざし口語をまじえた短歌は歌壇に新風を吹き込んだ。
しかし苦しい生活の中で肺結核を患い明治45年(1912)4月13日に小石川区久堅町の借家で死去した(27才)。親友の土岐善麿(歌人・国学者)の生家であった縁で、葬儀は等光寺でおこなわれ、啄木一周忌追悼会も当寺でおこなわれた。墓は函館市の立待岬にある。
この歌碑は、啄木生誕70年にあたる昭和30年に建てられた。「一握の砂」から次の句が記される。
浅草の夜のにぎはひにまぎれ入りまぎれ出で来しさびしき心
平成十五年三月 台東区教育委員会"
生後間もなく亡くなった長男の葬儀場は同じく浅草にある「了源寺」です。
東京メトロ銀座線田原町から銀座に向かいます。
銀座
高級ブランドショップやデパートを横目に銀座6丁目にある朝日新聞社跡の朝日ビルディングに向かいます。
朝日新聞社跡 石川啄木歌碑
啄木が明治42年3月から亡くなるまでの約3年間勤務した朝日新聞社跡地(現:朝日ビルディング東京支社)にある歌碑です。
鉄製のパイプで守られた歌碑です。ちょっとパイプが邪魔な気もしますが...、車が乗り上げたことでもあったのでしょうか。啄木没後60周年を記念して銀座の有志により昭和48年に建立されました。 啄木は銀座の方々に愛されていたのですね。
京橋の瀧山町の
新聞社
灯ともる頃のいそがしさかな
"石川啄木が瀧山町の朝日新聞社に勤務したのは、明治42年3月から45年4月13日27歳でこの世を去るまでの約3年間である。この間彼は佐藤真一編集長をはじめとする朝日の上司や同僚の厚意と恩情にまもられて、歌集「一還の砂」、「悲しき玩具」、詩集「呼子と口笛」など多くの名作を残し、庶民の生活の哀歓を歌うとともに時代閉塞の現状を批判した。
銀座の人びとが啄木没後満60年を記念して朝日新聞社跡に歌碑を建立したのはこの由緒によるものである。
昭和48年4月1日
日本大学教授 文学博士 岩城之徳"
後編では文京区(湯島、本郷、小石川)を紹介します。