岐阜城
岐阜と言えば、織田信長です。岐阜という名前を付けたのもの織田信長だとされています。岐阜城は標高329mの金華山(旧名:稲葉山)山頂付近に建てられた難攻不落のお城でした。


金華山北側には長良川、南側には大きな岩壁で濃尾平野に接しています。平らなところにそそり立つ姿によって標高以上の高さに感じてしまいます。

鎌倉時代、幕府の執事二階堂行政が軍事目的築いた砦が岐阜城(当時:稲葉山城)の始まりです。その後、斎藤道三が天文8年(1539)2月に入城、続いて子の義龍、孫の龍興が城主になりました。永禄10年(1567)織田信長が城主となります。幾人かの城主の変遷があり、慶長6年(1601)に廃城後。江戸時代には天守閣が建築されることはありませんでした。現在の天守閣は昭和31年(平成9年大改修)に再建したものです。


岐阜公園
岐阜公園

岐阜公園
岐阜公園金華山周辺は岐阜公園として整備されています。信長居館跡、岐阜市歴史博物館、加藤栄三・東一記念美術館、立礼茶室華松軒、名和昆虫博物館等多くの施設があります。



織田信長居館跡 冠木門
織田信長居館跡
冠木門の先に織田信長居館跡があります。現在も発掘調査が行われています。通路や石垣、土塁、建築物の礎石などを保存整備されています。

岐阜城の井戸
岐阜城の井戸

”岐阜城の井戸
 この辺り一帯は、戦国時代に斎藤道三や織田信長が、山頂の城とともに山麓に建設したとみられる居館区域に当たる場所で、この井戸は平成11年の発掘調査でみつかったものを復元してものです。
 発掘して際は、石積みの基礎に松の角材4本が、井桁に組み合わされて敷かれ、井戸底にサワラとヒノキで作られた桶が埋まっており、当時はこの桶に水が溜められていたことがうかがわれます。”



岐阜城に登るには、「ぎふ金華山ロープウェー」や金華山登山道があります。

ぎふ金華山ロープウェー
ぎふ金華山ロープウェー頂上駅まで約3分のロープウェーで岐阜城に向かいます。ロープウェーは見晴らしが最高で岐阜市内を一望できます。



岐阜
岐阜ロープウェーを降りてからは歩いて岐阜城を目指します。これがなかなかの登り道です。


岐阜城跡図
岐阜城跡図江戸時代に描かれた精密な跡図です。


馬の背登山道下り口
gon1610DSC06282「途中断崖や難所が多く、大変危険です。体力に自信のない方は通行を控えてください」と赤字で書かれています。難攻不落を実感します。ロープウェーが無かったら絶対に上らないと思います。



gon1610DSC06283時々見える景色を楽しみながら進みます。



金華山のチャート層(堆積岩)
金華山のチャート層 岩石 堆積岩NHKブラタモリ#92 岐阜「岐阜は 信長が夢見た“平和の都”!?」(2017年12月2日放送)では、金華山のチャートという地層に注目していました。金華山のチャート層は、放散虫化石によって古生代のペルム紀後期~中生代の三畳紀中期(約2億6千万~2億3千万年前)の地層とされます。チャート層の岩石は非常に硬いために浸食されずに平野にそそり立つ山として残りました。

ブラタモリでは、信長は平和を目指しており、難攻不落な城を作ることで「戦わずして勝つ平和な城」を築いたと解説されていました。楽市楽座政策など、城下町の発展にも力が注がれました。




岐阜城
岐阜城
岐阜城岐阜城が見えてきました。



岐阜城岐阜城チャートで作った石垣が使われています。加工するのが大変だった思いますが、材料が豊富で輸送時間も短く済みます。

岐阜城の由来

”岐阜城の由来
 鎌倉時代の建仁元年(1201)、幕府の執事二階堂山城守行政が軍事目的のためにここに初めて砦を築いたと伝えられているが、稲葉山城として日本史に大きく登場してくるのは斎藤道三以降のことです。
 斎藤道三は天文8年(1539)2月に稲葉山城を修築して入城し、続いて子の義龍、孫の龍興が城主になりました。
 永禄10年(1567)織田信長は斎藤龍興と戦って稲葉山城を落し、9月新城主として入城しました。信長は稲葉山城を岐阜城と改め、楽市場を保護し、「天下布武」の朱印を用いるなど天下統一の本拠地としました。永禄12年に宣教師ルイス・フロイスが岐阜城を訪れ、その壮麗さに驚いたことを書簡に記して本国ポルトガルへ送り、西洋にまで岐阜城のことが知られるようになりました。
 その後、織田信忠・神戸信孝・池田元助・池田輝政・豊臣秀勝が岐阜城主となりましたが、慶長5年(1600)8月23日岐阜城主織田秀信は西軍の豊臣方に味方して東軍の徳川方と戦い、福島正則・池田輝政に攻められて開城しました。慶長6年、岐阜城は廃城となり天守閣・櫓などは取り壊されて加納城に移築され、江戸時代には金華山頂に天守閣が建てられることはありませんでした。
 明冶43年(1910)木造の模擬城が建てられましたが、昭和18年(1943)焼失しました。その後、観光岐阜のシンボルとして、また安土桃山時代の華麗な城郭を再現したいという岐阜市民の熱意と浄財により昭和31年に現在の3層4階の天守閣を再建しました。
 平成9年(1997)大改修工事を行い、織田信長の頃の壮麗な天守閣の姿を再現しました。
   平成13年3月  岐阜市”

 

gon1610DSC06304

 

gon1610DSC06305お城内部には各種の展示品があります。


天守からの眺め
天守からの眺め関ケ原方面、長良川

天守からの眺め岐阜駅方面、木曽川、伊勢湾


天守からの眺め名古屋駅方面、国道22号線


天守からの眺め南アルプス方面


 


金華山展望レストラン ポンシェル
gon1610DSC06327

gon1610DSC06339

gon1610DSC06337
「太鼓櫓跡」と伝えらる展望レストランで『信長どて丼』をいただきました。目の前には長良川と岐阜市内を展望しながら食事が出来ます。疲れが吹き飛びます。



帰りもロープウェーです。

iPhoneのタイムラプスで撮影してみました。




名古屋湾に続く濃尾平野は非常に平坦です。その中でチャート地層によって出来た金華山は、標記以上に威圧感のある山になっています。山頂に築かれた岐阜城は、見ただけで難攻不落に思えるものでした。険しい山にどの様にして建築資材を運んだものなのか興味が湧きます。
ブラタモリでは織田信長が意外にも平和を目指していたと解説していました。織田信長の痕跡が残る岐阜は、岐阜城とともに魅力的な街並みを遺しています。