歴史を感じる岐阜市内散歩岐阜市内には歴史を感じる場所やレトロ空間が多く残っています。岐阜駅の北側、長良川に近いエリアを散策してみました。散策コースマップは最後に紹介します。


伊奈波神社界隈→岐阜大仏界隈→岐阜城・金華山界隈→川原町界隈の順で巡りました。駅から通じる国道256号線沿いの「伊奈波通り」というバス停から伊奈波神社を目指しました。


伊奈波神社国道256号線から伊奈波神社に通じる十字路に石柱があります。


ギャラリーカンダ一度、御鮨街道を渡ります。ギャラリーカンダ(旧樋本邸)の建物です。この界隈には古い建物が残っています。


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gon1610DSC06136堰が流れていますが、反対側は暗渠になっていました。

伊奈波神社の近くには多くの寺院があります。

誓願寺
岐阜

極楽寺
岐阜


善光寺安乗院
善光寺安乗院
善光寺安乗院
善光寺安乗院に伝わる木造釈迦如来像(岐阜市指定重要文化財)

"岐阜市指定重要文化財
 木造釈迦如来像 平成14年9月30日指定

 安乗院に伝わる木造釈迦如来像は、時代的に古く、美術的に優れた仏像です。
 像は、平安時代の作風をよく表しており、全体的に彫りが浅く、衣紋は流連的に表現されています。また。顔の表情は穏やかで、眼・鼻・髪などの細部にも時代の特徴が見られます。
 像の伝承については確証はありませんが、明治時代の神仏分離で廃絶した満願寺(かつて伊奈波神社の新宮寺として所在)との関係も推測されています
 
 平成17年 岐阜市教育委員会"


伊奈波神社・黒龍神社

伊奈波神社
伊奈波神社
黒龍神社
伊奈波神社由来によると1900年以上の歴史を持つと伝わる神社です。斎藤道三にゆかりがあります。初詣には岐阜市内で最も多い参拝客が集まるそうです。多くのご利益があり、岐阜のパワースポットとして多くの人が訪れているようです。元々この地にあったとされる末社の黒龍神社は多くの信仰を集めているそうです。
詳しくは(岐阜のパワースポット伊奈波神社・黒龍神社)で。



御鮨街道
御鮨街道長良川の鵜飼でとれた鮎を将軍家に献上する経路にあたることから「御鮨街道」と呼ばれています。塩漬けにした鮎を樽に入れて鮨(寿司)にしたそうです。名古屋の尾張藩主や江戸の将軍家に献上されました。

旧松喜仏壇店
旧松喜仏壇店旧松喜仏壇店御鮨街道を少し岐阜駅側に戻ったところにある古い町家建築です。明治44年の建築で登録有形文化財です。一日屋として活用されていました。この街道沿いには古い建物が点在しています。

美濃そば吉照庵
美濃そば吉照庵美濃そばの吉照庵、隣は銀行だった建物でしょうか。

水琴亭の黒壁
水琴亭の黒壁

空穂屋(カフェ、ギャラリー)
空穂屋(カフェ、ギャラリー)

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gon1610DSC06203町家や古い蔵が多く残っています。


さらに進むと寺町に入ります。寺院が点在していて、岐阜大仏がある正法寺があります。



常在寺
岐阜
gon1610DSC06205斎藤道三以後、三代の菩提寺。国重要文化財の「絹本著色斎藤道三像」と「絹本著色斎藤義龍像」が所蔵されています。絹地に着色して上畳に端座した姿を描いたものだそうです。

妙照寺
岐阜

岐阜大仏(正法寺)
岐阜大仏(正法寺)
岐阜大仏(正法寺)
岐阜大仏(正法寺)日本三大仏の一つにも数えられる岐阜大仏、奈良や鎌倉の大仏とは違った雰囲気感じる大仏です。高さが13.7mで乾漆仏としては日本一の大きさを誇っています。天保3年(1832)に、38年の年月を費やして完成しました。
骨格は木材で組まれ、外部は竹材と粘土で造られてります。その上には経典が書かれた和紙が貼られ、漆を塗った上に金箔が施されています。構造から別名「籠大仏」と言われています。
詳しくは、(やさしいお顔の金鳳山正法寺「岐阜大仏」)で。



gon1610DSC06251街道松の横を通り、岐阜城がある岐阜公園に進みます。


岐阜公園


岐阜市歴史博物館
岐阜市歴史博物館

女神の噴水
女神の噴水
名和昆虫博物館、記念昆虫館、財団法人名和昆虫研究所
名和昆虫博物館、記念昆虫館、財団法人名和昆虫研究所
名和昆虫博物館、記念昆虫館、財団法人名和昆虫研究所
名和昆虫博物館は、現存する昆虫専門の博物館としては,日本最古です。

名和昆虫博物館、記念昆虫館、財団法人名和昆虫研究所

"岐阜市指定重要文化財
 名和昆虫研究所記念昆虫館 指定 平成2年12月26日

 名和昆虫研究所は、名和靖(なわやすし)によって、明治29年(1896)岐阜市京町に開設された害虫駆除・益虫保護を目的とした研究所である。明治37年に岐阜公園内に移転、同40年には、陳列館(現在の記念昆虫館)、大正8年(1919)には、博物館を開き、農業や昆虫学の研究・教育に大きな役割を果たしてきた。
 記念昆虫館は、当時高名な建築家で、名古屋高等工業学校(現名工大)の校長でもあった武田五一(たけだごいち)の設計である。
 桁行14.54m、梁間7.30mの二階建て、鉄板葺き切妻形式である。1階壁はレンガ組みで、この上に屋根を支える三角形の木造トラス組みを設けて2階としている。急勾配の屋根には、1階窓に対応して4ヵ所ずつ採光窓を設けて変化をつけている。
 この建築は、当時オーストリアに興ったセセッションと呼ばれる建築様式の流れを汲むもので、実用性や理論的な建築構造を重んじた新しい考え方であった。記念昆虫館は、セセッションの日本における代表例の一つで、明治末から大正にかけて、日本の新しい建築文化への出発点にあるものと考えられる。

  平成4年11月16日   岐阜市教育委員会"

名和昆虫博物館
名和昆虫博物館昆虫博物館前にいた風格のある猫。



織田信長居館跡 冠木門
織田信長居館跡

"市指定史跡岐阜城跡・千畳敷
 織田信長居館跡

 永禄10年(1567)織田信長は、稲葉山城主・斎藤龍興(たつおき)を追放し、「井口(いのぐち)」から「岐阜」へとその名を改め、金華山山頂に岐阜城を修築して天下統一への拠点とした。金華山の西麓にあたるこの辺りには人工的な2~3段のテラス状地形があり、最上段を千畳敷、中段以下の大部分を千畳敷下という。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスがその著書の中で壮麗なのものとして紹介した信長の居館の跡といわれている。
 昭和59年から行われた発掘調査で、両側に板状の巨石を立て並べ、千畳敷下から千畳敷へと折れ曲がりながら上がっていく通路をはじめとして、その途中や周囲に配置された土塁状遺構・石垣・階段・水路などが発見さた。岐阜城は、信長が近江の安土に移った後、慶長5年(1600)関ケ原戦の前哨戦で落城するまで続くが、これらの遺構の多くは、その出土品などから信長時代にその基本的な造作が完成したと考えられる。巨石を用いる例は、江戸時代の大阪城大手門や搦手門(からめてもん)などにうかがえるが、この時期には稀である。
 発掘調査では、これらの遺構の下にさらに古い時代の遺構群が存在することが確認されている。石垣・石積施設・階段状遺構などで、これを破壊、または埋めて造られた通路など上層遺構が信長によるものとすれば、稲葉山城に係る斎藤氏時代の可能性が高い。また数枚の整地した土層が上下に重複していることが確認されているが、この中にはいくつかの焼土面が含まれており、施設の焼亡を挟んで複数の城主による造成が行われたことを示唆してる。
 壮麗豪華な建築と伝えられる信長の居館そのものの建築遺構はまだ確認されていないが、中世から近世への過渡期の様相を探る上で極めて重要な遺跡である。
  昭和63年6月 岐阜市教育委員会"


岐阜城の井戸

岐阜城の井戸

"岐阜城の井戸
 この辺り一帯は、戦国時代に斎藤道三や織田信長が、山頂の城とともに山麓に建設したとみられる居館区域に当たる場所で、この井戸は平成11年の発掘調査でみつかったものを復元してものです。
 発掘して際は、石積みの基礎に松の角材4本が、井桁に組み合わされて敷かれ、井戸底にサワラとヒノキで作られた桶が埋まっており、当時はこの桶に水が溜められていたことがうかがわれます。"


ぎふ金華山ロープウエー

ぎふ金華山ロープウエー頂上駅まで約3分のロープウェーで岐阜城に向かいます。ロープウェーは見晴らしが最高で岐阜市内を一望できます。


金華山
金華山岐阜城までは階段を進んでいきます。


金華山金華山のチャートを見ることが出来ます。


岐阜城
岐阜城岐阜城は標高329mの金華山(旧名:稲葉山)山頂付近に建てられた難攻不落のお城でした。金華山北側には長良川、南側には大きな岩壁で濃尾平野に接しています。鎌倉時代、幕府の執事二階堂行政が軍事目的築いた砦が岐阜城(当時:稲葉山城)の始まりです。その後、斎藤道三が天文8年(1539)2月に入城、永禄10年(1567)織田信長が城主となります。幾人かの城主の変遷があり、慶長6年(1601)に廃城後、江戸時代には天守閣が建築されることはありませんでした。現在の天守閣は昭和31年(平成9年大改修)に再建したものです。
詳しくは、(金華山のチャート(岩石)が守る難攻不落の岐阜城)で、

岐阜城チャートで作った石垣が使われています。

岐阜城天守からの展望は素晴らしいです。天下を取った気分を味わえるのでは?


信長どて丼展望レストランで「信長どて丼」を頂き、英気を養って次に進みます。



湊コミュニティ水路
gon1610DSC06342忠節用水放水路沿いに整備された「湊コミュニティ水路」を渡り、川原町広場に向かいます。

川原町の古い町並み川原町広場から川原町の表通りに繋がる坂道です。この坂道だけでも来た甲斐があります。


川原町の古い町並み
川原町の古い町並み
川原町の古い町並み
川原町の古い町並み「川原町」は、長良川の中州を利用した川港だったそうです。長良川上流は和紙の原料である楮(こうぞ)の産地で、港があった川原町付近は水運で栄えました。織田信長は上質な和紙で書状を書いたのだとか。
詳しくは、(川原町の古い町並みはレトロ空間そのもの)で。


川原町の古い町並み

"川原町(湊町・玉井町・元浜町)の由来
 長良川の川湊として繁栄した川原町は、古くは中河原と呼ばれ、ここを貫いている表通りは中世からの古い道筋で、斎藤道三公、織田信長公の城下町の時代には市場も開かれていました。
 近世から近代を通して、上流からの和紙や木材などを扱う大きな商家が軒を連ね、長良川流域の拠点として栄えました。落ち着いた佇まいを見せる街並みに、切妻平入り、窓に格子を施し、壁を真壁造漆喰仕上げにした伝統的な町家が並んでいます。
 今、あなたがたっているこの広場一帯は、かつては長良川の遊水地となっていて、木材や鵜飼観覧船なども入り込んでいました。商家の裏側には玉石垣の上に黒壁土蔵が並んでおり、川とともに生きてきた営みを今に伝えます。
 ここから仰ぎ見る金華山は、今も昔も変わらぬ姿でそびえています。緑の山麓の合間に望む朱色の三重塔は、大正天皇のご即位を記念したものです。風光明媚な金華山において、町家の中から最も美しく見えるポイントとして指示したのは、川原町の商家に逗留していた日本画家の川合玉堂画伯です。
 長良川と金華山に抱かれた川原町は、古くからの伝統を受け継ぎ、未来に伝えるまちとしてここにあります。
  川原町まちづくり会"



gon1610DSC06385川原町を東に進むと鵜飼観覧船のりばがあります。多くの観覧船が係留されていました。



斎藤道三や織田信長が拠点とした岐阜には歴史を感じる場所が多く残っています。何よりレトロな空間が癒しをあたえてくれる街でした。