「本郷も かねやすまでは 江戸の内」、本郷三丁目の交差点にある洋品店「かねやす」さんには川柳の看板が掛かっています。これは江戸時代の川柳だそうです。ブラタモリによると、 この辺りを境に華やいだ風景が郊外の風景に変わったそうです。
「かねやす」文京区教育委員会の説明書き
兼康祐悦という口中医師(歯科医)が、乳香散という歯磨粉を売り出した。大変評判になり、客が多数集まり祭のように賑わった。(御府内備考による)
享保15年大火があり、防災上から町奉行(大岡越前守)は三丁目から江戸城にかけての家は塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺を禁じて瓦で葺くことを許した。江戸の町並みは本郷まで瓦葺が続き、それからの中仙(中山)道は板や茅葺の家が続いた。
その境目の大きな土蔵のある「かねやす」は目だっていた。
『本郷も かねやす までは江戸のうち』と古川柳にも歌われた由縁であろう。
芝神明前の兼康との間に元祖争いが起きた。時の町奉行は、本郷は仮名で芝は漢字で、と粋な判決を行った。それ以来本郷は仮名で「かねやす」と書くようになった。
本郷通りの三丁目交差点から東大の赤門の方面へ向かう中山道には、僅かな勾配の凹凸があります。 ここには「別れの橋跡 見送り坂と見返り坂」の設置看板があります。
「別れの橋跡 見送り坂と見返り坂」文京区教育委員会の説明書き
「むかし太田道灌の領地の境目なりしといひ伝ふ。その頃追放の者など此処より放せしと・・・・・・いずれのころにかありし、此辺にて大きなる石を堀出せり、是なんかの別れの橋なりしといひ伝へり・・・・・・太田道灌(1432~86)の頃在任など此所よりおひはなせしかは、ここよりおのがままに別るるの橋といへる儀なりや」と『改撰江戸志』にある。
この前方の本郷通りはややへんこんでいる。むかし、加賀屋敷(現東大構内)から小川が流れ、菊坂の谷にそそいでいた、『新撰東京名所図会』(明治40年刊)には、「勧業場本郷館(注・現文京センター)の辺は、地層やや低く、弓形にへこみを印す、其くぼめる所、一条の小渠、上に橋を架し、別れの橋といひきとぞ」とある。
江戸を追放された者が、この別れの橋で放たれ、南側の坂(本郷3丁目寄)で、親類縁者が涙で見送ったから見送り坂。追放された人がふりかえりながら去ったから見返り坂といわれた。
今雑踏の本郷通りに立って500年の歴史の重みを感じる。
この先には東京大学の赤門があります。赤門付近には江戸時代に加賀金沢前田家の上屋敷があった場所です。
文政10年(1827年)に加賀13代藩主前田斉泰に嫁入りした11代将軍徳川家斉の息女溶姫(やすひめ)のために建てられた御守殿門です。将軍家から嫁入りがあった時には朱入りにする習わしがあったそうです。
この婚礼には『武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書)』に登場する加賀藩御算用者である猪山家が婚礼準備係として赤門の創設にも深く関わっています。
武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書)
本郷三丁目付近だけでも面白い場所です。