奥州市江刺区岩谷堂にある明治記念館「旧岩谷堂共立病院」です。明治建築の遺構です。外観は3層ですが、4階建ての建物となります。
”岩手県指定有形文化財 岩谷堂共立病院
指定年月日 昭和54年(1979)2月27日
位置 江刺市岩谷堂字向山42番地1
所有者 江刺市
岩谷堂共立病院明治維新を機に、西洋医学の導入と病院建築の機運が高まり、明治2年(1870)以降の伊勢参宮者からの1円づつの献金と、寄付金を合わせ2千円余りの資金で建築が始められ明治7年(1875)7月堂共立病院の完成をみた。
診療の体制は診察方、調剤方と医薬分業による近代的な経営とし、翌8年(1876)1月20日正式開院となったものである。この計画と病院建築の推進に貢献した、ときの水沢県中属で第11大区取締の草津作の功績は大きい。大工棟梁は当時の郡棟梁、鴨沢村(広瀬)の及川東助で、院長は4月東京から招請して白河藩士、横田信行である。翌9年3月、上口内に派出所を設け、人首、黒沢尻等に出張診療までしたが、資金不足から経営は極度に窮迫し、同年8月遂に岩手県への移管を願い出たが入れられなかった。その後、12月になって資金を借り入れしようとした書類のみで、以下共立病院の消息を知る資料はない。
その後明治21年(1888)から39年(1906)まで、磐井治安裁判所岩谷堂出張所の庁舎として利用され、その他、岩谷堂小学校、実科女学校、農事試験場胆江分場に利用し、大正初期から、岩谷堂町役場、江刺市役所庁舎として町、市民から親しまれた。太平洋戦争週末の昭和19年(1944)秋、東京から疎開した作家、菊田一夫のラジオドラマ「鐘の鳴る丘」のモチーフになったといわれている。
建物は1階部分の壁が改造されたほか部屋の模様替程度で、主たる構造材は建築当時のまま保存されている。昭和54年(1979)岩手県指定有形文化財(建造物)に指定なる。
昭和55年6月 江刺市観光協会”
楼閣式の建築で、八角形の塔屋部屋根が象徴的な建物で、美しい建築物です。
広々として玄関。
正面の2階北側室障子戸。戸の板に絵が描かれていました。
3階からの眺めです。
創建時の外壁が展示されていました。返しのような意匠が付けられています。
大正時代、岩谷堂役場時代に使われてた金庫だそうです、ダイヤルが「イロハ」です。
和洋折衷といった外観の建物で、地域の象徴になっている建造物です。