JR東日本『駅からハイキング』の期間設定コース「城下町・盛岡 まちなかで清流と歴史と祭りを訪ね歩く」に参加して盛岡市内を散策しました。駅ハイ2回目、今回は奥さんと子供たちも一緒に家族で散歩です。
盛岡駅

 


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北東北観光センター(盛岡駅)
1.夕顔瀬橋
2.いーはとーぶアベニュー材木町
3.啄木新婚の家
4.寺町通り
5.三ツ石神社
6.富士見橋・上の橋・中の橋
7.プラザおでって(チェックポイント)
8.もりおか歴史文化館
9.盛岡城跡公園
北東北観光センター(盛岡駅)


コース上は盛岡駅から夕顔瀬橋に直接向かうことになっていましたが旭橋に向かいました。

(寄り道「川守稲荷神社」)
旭橋のたもと橋市盛岡ビルの前を通ると石塔に「川守稲荷神社」という文字がありました。ビルの階段上部を見上げると神社が確かにあります。今まで車で通っていたときには気付きませんでした。残念ながら階段に鎖が掛かり、この日にお参りは出来ませんでした。
元々、河川敷にあった神社が河川改修工事で取り壊されることを知ったビルのオーナーがビル内に移したとか。
川守稲荷神社
川守稲荷神社


(寄り道「旭橋」)
旭橋を渡りながら上流を眺めると、盛岡の街を縫うように流れる北上川の奥に、岩手山がきれい見えました。岩手山が盛岡を見守っているかのような風景です。
旭橋から見る岩手山

旭橋を渡り、北上川左岸の遊歩道に降りて本来のコースである夕顔瀬橋に進みました。
材木町裏石組の遊歩道


(寄り道「材木町裏石組」)
江戸時代からの町人街である材木町、裏側には盛岡市の保存建造物である「材木町裏石組」があります。江戸時代末期から明治期に築造されたと言われる石垣護岸です。

以前、この遊歩道を歩いた際、石垣に統一性がないことを疑問に思いました。調べてみると町人が各家で裏手の護岸工事を行ったためだと知りました。施工時期や施工金額による差が出たようです。当時のことを想像すると好奇心が湧いてきました。
材木町裏石組
材木町裏石組
材木町裏石組


家から川岸に下りられるように石段も設置されています。この石段も各家ごとに造りや角度が違っているのも面白いです。
材木町裏石組


1.夕顔瀬橋
夕顔瀬橋

夕顔瀬橋の下から上流を眺めるとJR山田線(盛岡駅~釜石駅)の鉄橋が見えます。東日本大震災の影響で宮古~釜石駅間の上下線で終日運転を見合せ中(2011年8月1日現在)です。奥には岩手山が見えます。
夕顔瀬橋下から見るJR山田線


夕顔瀬橋には上流側の歩道中央部と橋のたもと(写真)に古い石灯篭があります。歩道中央部の石灯篭はレプリカだそうです。重量に耐えられないことから橋のたもとに本物を置いたそうです。
慶応年間の大火で「材木町」が焼け残り、岩手山信仰の御礼として奉納された石灯篭だそうです。こちらのブログ「何時半次郎のKenBunLog」に詳しく載っていました。
石灯篭

2.いーはとーぶアベニュー材木町
古くは岩手町や柾(こば)町といっていたそうです。春木場が対岸の木伏(きつぷし)ににあり、材木商が多かったことから材木町と言われるようになったそです。
材木町

材木町の案内図
材木町案内図
詩座(うたざ)
詩座
絹座
絹座
音座
音座
星座(手前)
星座
石座
語りかけて来るような宮沢賢治像です。
宮沢賢治像
宮沢賢治像
宮沢賢治像


材木をかたどった?街路灯です。後ろには鉄道専門店があります。
街路灯

おしゃれな外観の歯医者さんです。通院するのが楽しみになりそうです。
歯医者


光原社
宮沢賢治ゆかりの光原社です。
「大正13年(1924)宮沢賢治の生前唯一の童話集[注文の多い料理店]を発刊、社名も賢治の手によって光原社と名づけられました。」(「光原社のHP」より)
光原社

光原社の中庭です。落ち着ける素敵な中庭でした。喫茶店もあります。
光原社の中庭
光原社の中庭
宮沢賢治ゆかりの地
イーハトーブ童話 註文の多い料理店出版の地
イーハトーブ童話 註文の多い料理店出版の地

光原社の中庭
光原社の中庭
光原社の中庭

材木町の街並みです。
材木町の街並み


3.啄木新婚の家
盛岡市内にある啄木の遺跡はここだけだそうです。
啄木新婚の家
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啄木新婚の家
啄木新婚の家

啄木新婚の家 案内
この案内板によると
「詩人石川啄木は、明治38年(1905)5月、東京で処女詩集「あこがれ」を出版しそれをみやげに帰郷の途についたが、金策の必要から途中仙台に下車して土井晩翠をその居に訪ねた。仙台医学専門学校には郷友、猪狩見竜、小林茂雄らが在学中で、彼らと遊んで滞在すること10日におよんだ。その間、盛岡市帷子小路八番戸の借家には月末の30日に結婚式を挙げるべく婚約者の掘合節子がその帰宅を待ちわびていた。しかし啄木は遂に姿を見せなかった。そこでその夜級友上野宏一(画家)の媒酌で珍妙な「花婿のいない結婚式」がおこなわれた、それがこの家である。仙台をたった啄木は盛岡駅を素通りして渋民に行き、ようやくこの家に顔を見せたのは6月4日だった。ここではじめて新婚の夫婦と両親、妹光子の5人が揃って家庭をもったのである。時に啄木は20歳。この家で稿を起こした随筆「閑天地」は連日、岩手日報の紙上をにぎわし、「我が四畳半」はよく新婚の夢あたたかな情景を描いている。ほかに「妹よ」、「明滅」、「この心」の作がある。
啄木一家がここに在ること3週間、6月25日には中津川のほとり加賀野磧町四番戸に転居した。
現在盛岡市内の啄木遺跡といえるのは「啄木新婚の家」だけである。」
とありました。啄木が結婚式をすっぽかしたという逸話が書かれています。


(寄り道 昼食「米久」)
子供たちが暑さで疲れが見え、お腹が空いたというのでお昼にしました。ちょうど、目の前に「米久」というおそば屋さんがあり、昼食休憩としました。
米久
鉢に金魚がいて涼しげな演出です。
米久
冷やし中華を食べました。
冷やし中華

 

(寄り道「石割桜」)
盛岡地方裁判所の敷地内にある巨大な花崗岩の割れ目に育った桜です。直径約1.35m、樹齢360年を越える桜だそうです。
石割桜


(寄り道「岩手医科大学附属病院」)
岩手医大の横を通ると、宮沢賢治の詩碑がありました。創立50周年記念に建立されたようです。
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その隣には賢治が入院したときの看護師さんとの初恋の逸話が書かれていました。
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前編は賢治の初恋で〆て、後編へ続く