前編(上野・湯島)の続き、後編では本郷の散歩を紹介します。

上野から湯島を経由して本郷を散策しました。本郷は夏目漱石や樋口一葉をはじめ、明治や大正の文豪たちが居を構えた場所です。菊坂近辺には岩手県出身の石川啄木や宮沢賢治の居住跡もあります。

東京大学 安田講堂


(前編)
上野アメ横
不忍池
旧岩崎邸庭園
湯島天神

(後編)
かねやす
見送り坂・見返り坂
東京大学(赤門・三四郎池・安田講堂)
太栄館(旧「蓋平館別館」)
鳳明館(ほうめいかん)
樋口一葉菊坂旧居跡
宮沢賢治旧居跡
金魚坂

 

かねやす

「本郷も かねやすまでは 江戸の内」、本郷三丁目の交差点にある洋品店「かねやす」さんには川柳の看板が掛けられています。これは江戸時代の川柳だそうです。NHKブラタモリによると、 この辺りを境に華やいだ風景が郊外の風景に変わったそうです。
本郷も かねやすまでは 江戸の内

本郷も かねやすまでは 江戸の内

「かねやす」文京区教育委員会の説明書き

"兼康祐悦という口中医師(歯科医)が、乳香散という歯磨粉を売り出した。大変評判になり、客が多数集まり祭のように賑わった。(御府内備考による)
享保15年大火があり、防災上から町奉行(大岡越前守)は三丁目から江戸城にかけての家は塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺を禁じて瓦で葺くことを許した。江戸の町並みは本郷まで瓦葺が続き、それからの中仙(中山)道は板や茅葺の家が続いた。
その境目の大きな土蔵のある「かねやす」は目だっていた。
『本郷も かねやす までは江戸のうち』と古川柳にも歌われた由縁であろう。
芝神明前の兼康との間に元祖争いが起きた。時の町奉行は、本郷は仮名で芝は漢字で、と粋な判決を行った。それ以来本郷は仮名で「かねやす」と書くようになった"

 

 

見送り坂・見返り坂
本郷通りの三丁目交差点から東大赤門の方面へ向かう中山道には、僅かな勾配の凹凸があります。 ここには「別れの橋跡 見送り坂と見返り坂」の設置看板があります。

写真では分りにくいですが、丁字路がぶつかった中仙道には僅かな窪みがあり、中仙道を横切る川が流れていたことが分ります。
丁字路の手前が「見送り坂」、丁字路付近に「別れの橋」があり、丁字路の奥が「見返り坂」です。
見送り坂・見返り坂

見送り坂・見返り坂

「別れの橋跡 見送り坂と見返り坂」文京区教育委員会の説明書き

"「むかし太田道灌の領地の境目なりしといひ伝ふ。その頃追放の者など此処より放せしと・・・・・・いずれのころにかありし、此辺にて大きなる石を堀出せり、是なんかの別れの橋なりしといひ伝へり・・・・・・太田道灌(1432~86)の頃在任など此所よりおひはなせしかは、ここよりおのがままに別るるの橋といへる儀なりや」と『改撰江戸志』にある。
この前方の本郷通りはややへんこんでいる。むかし、加賀屋敷(現東大構内)から小川が流れ、菊坂の谷にそそいでいた、『新撰東京名所図会』(明治40年刊)には、「勧業場本郷館(注・現文京センター)の辺は、地層やや低く、弓形にへこみを印す、其くぼめる所、一条の小渠、上に橋を架し、別れの橋といひきとぞ」とある。
江戸を追放された者が、この別れの橋で放たれ、南側の坂(本郷3丁目寄)で、親類縁者が涙で見送ったから見送り坂。追放された人がふりかえりながら去ったから見返り坂といわれた。
今雑踏の本郷通りに立って500年の歴史の重みを感じる"

 

 

東京大学 赤門(旧加賀藩上屋敷御守殿門)

門が赤いのは、加賀藩13代藩主前田斉泰が文政10年(1827)に11代将軍徳川家斉の娘溶姫を正室に迎えたことに由来します。当時、三位以上の大名が将軍家から妻を迎える時には朱塗りの門を建てたそうです。朱塗りの門で原型を残すのは東大赤門だけだそうです。東大が加賀藩前田家上屋敷だったことが分かります。

赤門の建設には武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書 磯田道史著)という本に登場する猪山家が携わっています。猪山家は赤門建設の功績で出世したと記憶しています。
赤門(旧加賀藩上屋敷御守殿門)

門をくぐると、立派な扉を見ることが出来ます。
赤門(旧加賀藩上屋敷御守殿門)

赤門(旧加賀藩上屋敷御守殿門)

キャンパス案内図を見ると、かなり広い敷地であることが分ります。構内は緑が多く、散歩にも最高の場所だと思います。
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東京大学 三四郎池
夏目漱石の小説「三四郎」で主人公がヒロインと出会った場所であることに由来して「三四郎池」と呼ぶようになったそうです。
正式名称は「育徳園心字池」。寛永3年(1626年)、徳川家光の内命で前田利常が育徳園を造園し、池を心字池と読んだそうです。
心字池は心の字をかたどって造られた池のことです。
三四郎池

三四郎池


東京大学 安田講堂
正門をまっすぐ進んだところに安田講堂があります。東大のシンボルではないでしょうか。
東京大学 安田講堂

正門から安田講堂までは銀杏並木が続きます。
東京大学 銀杏並木


東京大学 正門
重厚感のある門です。
東京大学 正門

どこまでも続くかのようなレンガ塀です。
東京大学 レンガ塀



東大正門前の中仙道を渡ると、江戸時代には森川宿と称した旧森川町です。
旧森川町

奥が東大正門です。
旧森川町

狭い道路に坂道が多い、閑静な住宅街です。
旧森川町

坂を下って行くと、小さな公園がありました。
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太栄館(旧「蓋平館別館」)
岩手県出身の石川啄木「ゆかりの宿」です。金田一京介の紹介で明治41年9月から9カ月止宿、小説「鳥影」を執筆したそうです。
太栄館(旧「蓋平館別館」)


新坂
太栄館を進むと急な坂道となります。
新坂

新坂
文京区教育委員会の説明板には「二葉亭四迷、尾崎紅葉、徳田秋声など、文人が多く住んだ。この坂は、文人の逍遥(しゅよう)の道でもあったと思われる」とあります。

新坂を下り、左折すると菊坂下の交差点があり、菊坂に向かいます。

胸突坂
本郷五郵便局を左折すると、胸突坂があります。
胸突坂

坂名は急な傾斜に由来するそうですが、それほどキツくは感じませんでした。胸突坂

鳳明館(ほうめいかん)
胸突坂を登って行くと右手に「鳳明館」があります。
本館は平成12年に登録有形文化財になっています。明治30年代に建築され、昭和初期に改造が施されています。木造地上2階地下1階建の造りです。当初は下宿屋で、昭和20年に旅館建築に模様替えされました。各室毎に異なった銘木が使われているそうです。
鳳明館
鳳明館

隣には鳳明館別館があります。
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再び、胸突坂を下ります。本郷五郵便局の交差点を渡り、一つ裏の通り(菊坂下段)に入ります。
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菊水湯
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菊坂の上段と下段の数か所は階段で結ばれています。
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樋口一葉菊坂旧居跡
菊坂の路地です。住宅地ですので、見学時には迷惑にならないよう注意が必要です。樋口一葉が明治23年から25年に、この路地あたりに住んでいたそうです。一葉も使った井戸が残っています。
樋口一葉菊坂旧居跡

周辺の雰囲気は明治や大正がそのまま残ったかのような趣を残しています。

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宮沢賢治旧居跡
岩手県出身の宮沢賢治が居を構えた場所です。
宮沢賢治旧居跡

文京区教育委員会の説明書き
「宮沢賢治〔明治29年(1896年)-昭和8年(1933年)〕は詩人・童話作家。花巻市生まれ。大正10年(1921年)1月上京、同年8月まで本郷菊坂町75番地稲垣方二階六畳に間借りしていた。菜食主義者で馬鈴薯と水の食事が多かった。
東京大学赤門前の文信社(現大学堂メガネ店)で謄写版刷りの筆耕や校正などで自活し昼休みには街頭で日蓮宗の布教活動をした。これらの活動と平行して童話・詩歌の創作に専念し、1日300枚の割合で原稿を書いたといわれている。童話集『注文の多い料理店』に収められた「かしわばやしの夜」、「どんぐりと山猫」などの主な作品はここで書かれたものである。
8月、妹トシの肺炎の悪化の知らせで急ぎ花巻に帰ることになったが、トランクにはいっぱいになるほど原稿が入っていたという」


この地で多くの作品が生まれたことが分ります。



菊坂
菊の花を作る人が多く住んでいたことから、菊坂となったとのことです。
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本妙寺坂
春日通りから菊坂に下る坂。菊坂を挟んで、登った側に江戸時代に本妙寺というお寺があったそうです。江戸の大半を焼失した明暦の大火、いわゆる「振袖火事」の火元という説が残るお寺です。
菊坂を底に両側に坂があり、菊坂が窪地にあることが分ります。
本妙寺坂

本妙寺坂にある「菊坂界隈文人マップ」です。この界隈に多くの文豪が暮らしていたことが分ります。
菊坂界隈文人マップ


きくさかどおり商店街
きくざかどおり


街灯の柱1本1本に菊坂ゆかりの文人達の紹介があります。

正岡子規
正岡子規

芥川竜之介

芥川竜之介

夏目漱石
夏目漱石

石川啄木
石川啄木

宮沢賢治
宮沢賢治

まだまだ多くの文人の名前がありました。

「一葉文学のまち」看板もありました。
一葉文学のまち



金魚坂
金魚坂は350年続くという金魚の卸問屋です。
路地に入ると金魚坂の看板が見えて来ます。
金魚坂

中には金魚の釣り堀もありました。
金魚坂

同じ敷地内にレストラン「金魚坂」があります。この日は1階が貸切でしたので、中には入りませんでした。(残念・・・)看板には「珈琲、中国茶、お食事、葉巻」と書かれています。葉巻まであるそうです。食事では金魚坂御膳やコース料理もあるようです。
金魚坂



明治や大正の文豪達の面影を追いかけて行くうちに、タイプスリップしたような気持ちにさせられるの街でした。