「荒俣宏・高橋克彦の岩手ふしぎ旅」(実業之日本社)を読みました。同じ1947年生まれの荒俣宏氏と高橋克彦氏が独特の視点から謎が多い岩手の歴史を探訪します。岩手の隠れたパワースポット、隠された歴史をひも解きます。
昨年9月に遠野市で開催された「妖怪セミナーin遠野・第三回怪遺産認定式」で、お2人の対談を聞きましたが非常に面白い内容だったことを思い出します。
ベストセラー『帝都物語』の作者であり、膨大な知識を持った荒俣宏氏、『炎立つ』や『火怨』などの岩手を舞台にした多くの歴史小説を描いてきた高橋克彦氏がディープな岩手を歩きます。
両氏が歩いたことで新たな発見があり、対談での岩手論は非常に面白い考察がなされます。2人で歩いたからこそ、生まれた岩手論であると思います。
高橋氏の『火怨』と並行して読みました。高橋氏の著書での解釈がより鮮明になり、どちらの本も楽しさが倍増します 。高橋氏が今回の旅で自分の解釈を確信したり、新たな発見により新しい解釈が生まれたりします。
本書のキーワードは「隠す」であり、往時の平泉では毛越寺が隠れ蓑になっていたという推察が特に面白い考察でした。
"「これはおまえたちにはないだろう」ということを、毛越寺の後ろの中尊寺で示しているわけだ。毛越寺では、都の貴族が来たら、「あァ『作庭記』のとおりにやっているね、東北もここまできたのか」というふうに思わせて、一歩下がると埋葬の方法、「おまえたちが使っていない方法をおれたちはやっているんだ」と。この奥の深さというか、二枚腰というか、それが明快に見えるようだね。"(88ページ)
「隠す」への私の"浅はか"で勝手な解釈ですが、蝦夷自身、あるいは蝦夷に関係した何か大切なものを隠し通して来たのではないかと思っています。
奥州藤原氏が滅びたのも戦える余力があったにも関わらず、自滅したという説を聞いたことがあります。その答えは浄土思想を全うするためとの捉え方もあるかもしれませんが、別の何かを隠そうとしたのではないかと勝手に思い込んでしまいました。
『遠野物語』の話が生まれた江戸時代の遠野は裕福な城下町であったと語っています。『遠野物語』は田舎びた山の中の話であり、田舎を装ったのではないかとしています。岩手の地には敗れ続けて来た歴史があり、遠野の豊かな暮らしを中央に隠そうとしたという考察です。
遠野の豊かな生活は、遠野の善明寺で2人が発見した『供養絵額』に描かれていました。供養絵という習俗があったことにも驚かされました。
岩手の歴史に関る資料が少ないのは負け続けてきた歴史にあると高橋氏は語っています。表に出ている歴史は残った(主流となった)勢力が作ったものであるからです。史跡の中には主流派が自らを正当化するために造られたものもあるのだと思います。
今回の旅では「隠す」ということがキーワードとなり、歴史の裏を(両面から)みることの大切さを実感しました。
追記
以前、花巻市東和町の成島毘沙門堂にある巨大な兜跋毘沙門天立像を見て来ました。高さ4.73mもあり、見るものを圧倒する毘沙門天立像です。
同じく東和町にある丹内山神社のアラハバキ大神の巨石は、『火怨』の中で物部氏が協力して蝦夷の鍛錬をおこなった場所として登場します。『火怨』を読んで、丹内山神社に2度ほど足を運びました。
この2つ場所について、本書で興味深い高橋氏の話がありました。
"兜跋毘沙門の一番の役目というのは、艮(うしとら)の金神(こんじん)を封じるためで、都の羅生門にも、艮の方角(北東)を守るために兜跋毘沙門天が安置されている。その羅生門の兜跋毘沙門天から艮の方角へ真っすぐ一直線を引くと、東和町のあの兜跋毘沙門天にぶつかる。その兜跋毘沙門天がにらんでいるところが、なんと丹内山神社だ。 " (P111)
Googleマップで線を引いてみました。羅生門から北東に一直線に線を引くと、確かに兜跋毘沙門天立像にぶつかりました。
兜跋毘沙門天立像から丹内山神社に線を引いてみました。現地に行って地図を照らし合わせる必要がありますが、記憶の範囲では兜跋毘沙門天が見ている方向に丹内山神社があることが分りました。