石川啄木は明治45年(1912)に26歳の若さで亡くなりました。今年が没後100年であり、各地で記念事業が開催されようとしています。 先日は東京のゆかりの地を訪ねてみました。(前編(上野・浅草・銀座)後編(湯島・本郷・小石川)
同じ岩手県人として、啄木の歌集を読んでおこうと思った次第です。一握の砂・悲しき玩具―石川啄木歌集(新潮文庫)


以前読んだ梅原猛氏の本も啄木を読もうと思ったきっかけです。


梅原猛氏が「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る (集英社文庫) 」 の中で、自分を文学にかりたてた一人が啄木だと打ち明けています。東北人に優れた詩人が多いことの理由の一つとして、歴史的背景からくる自負があるということを解いていました。その一人が啄木であり、歌人としての啄木を評価していました。

"東北人の強い自負は、いままでは理由がないように思われた。しかし考古学の発展は、東北人の自負もまた、関西人の自負と同じように歴史的背景をもっていることを明らかにした。ちょうど関西に弥生文化の花が咲くころから千年ほど前、ここに縄文文化の花が咲いていたのである。ここはまさに千年のあいだ、日本の文化の中心地であったのである。無意識のうちに東北人はそのような自負を、歴史から受け継いでいたのである。しかし、そのような自負は他所の人間にはまったく理解されない。そして、そのような自負と不理解のギャップが、かくも優れた多くの詩人たちを生んだともいえるかもしれない"― 出典:日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る (集英社文庫) , 109ページ より


啄木の生活はいつも困窮していました。病気がちでもあり、楽な生活をしたことはなかったと思います。それでも夢をもって(自負をもって)、もがき続けます。

文学で身を立てたいという強い意志を持つも、小説では認められませんでした。そんな中での貧困による悲哀や絶望、望郷の念を白露する場が短歌でした。

啄木は自分の短歌を悲しき玩具だと言ったそうです。 短歌を詠んでいる時が心やすらぐ時だったのかもしれません。

啄木の短歌は現代でも評価され、没後100年事業が各地で計画されています。短歌で評価されることは啄木には不本意なのかもしれません。啄木は天国で眺めながら、皮肉るような短歌を詠んで楽しんでいるように思えます。


啄木の人間性については評価が分かれるところです。金田一京助や土岐哀果らの親友たちは亡くなる寸前まで啄木を支えます。人を引き付ける魅力があったのも事実だと思います。


この短歌集ですが、青春の回帰や望郷の想い、貧困生活の悲哀、死、女性への想いなど幅広い胸中をさらしています。啄木そのものが現れているのだと思います。

と、偉そうに言ってみたものの、意味を理解できない短歌が多くありました...。時々、目を通しながら理解を深めたいと思います。


余り意味を理解できない中で、なぜか気になった歌が『一握の砂』の「我を愛する歌」に含まれる下記の短歌です。

或る時のわれのこころを
焼きたての
麺麭に似たりと思ひけるかな


麵麭はパンです。「なぜにパンなんだ?」というのが妙に引っかかりました。明治の時代にパンが身近にあったのか分かりません。銀座の朝日新聞で働いていた啄木が、銀座でパンを見ていたのかもしれません。あるいは西洋への憧れだったのだろうか...、聖書にはパンがよく出てくることから、聖書の影響でもあったのだろうか...と想像を巡らせてしまいました。
いずれにせよ、焼きたてのパンのイメージと言えば、「芳ばしい」という言葉が浮かび上がります。自分の心がパンのように芳ばしいという意味だったのでしょうか。どんな時がそのような心だったのか、気になるところです。