胆沢城(いさわじょう)」(奥州市水沢区佐倉河渋田)は平安時代初期802年に坂上田村麻呂によって築かれた鎮守府(ちんじゅふ)です。古代城柵の跡地として、大正11(1922)年に国の指定史跡となっています。

史跡胆沢城跡


鎮守府ははじめ、奈良時代初期724年に築かれた国府多賀城に置かれ、陸奥国の古代蝦夷を鎮めるための役所でした。
胆沢城には808年に移されたとされていますが、正式な史実は残っていないようです。胆沢城は鎮守府として150年間ほど機能したそうです。


朝廷と戦った蝦夷(えみし)のリーダー阿弖流為(あてるい)が500人余りを率いて投降したの胆沢城でした。阿弖流為は胆沢の地を本拠としていたとされています。

阿弖流為(あてるい)と母礼(もれ)を中心とした蝦夷(えみし)と朝廷との戦いを描いた「火怨 下 北の燿星アテルイ (講談社文庫)」 では、阿弖流為が最後の戦いで胆沢に堅牢な柵を築きます。その柵をわざと朝廷軍の坂上田村麻呂に奪わせます。その後、戦いを終わらせるために胆沢の柵に投降します。それも蝦夷を守るための練りに練った策でした。胆沢の柵に坂上田村麻呂が胆沢城を築き、朝廷の鎮守府とします。

火怨 下 北の燿星アテルイ (講談社文庫)
火怨 下 北の燿星アテルイ (講談社文庫)




奥州市中心部の国道4号線から県道270号線(奥州街道)に入り、金ヶ崎方面に北上して900mほどの所に「奥州市埋蔵文化財調査センター」があります。胆沢城跡には駐車場がありませんので、こちらの駐車場に停めるようです。センターから600mほどで胆沢城跡になります。


胆沢城跡に着くと、胆沢城政庁地区の案内看板がありました。政庁地区は一辺90mの土塁で囲まれているそうです。
胆沢城政庁地区案内看板


政庁地区 


奥州市埋蔵文化財調査センターのHPによると、

"胆沢城は、高さ約3.9m、一辺675mの築地(ついじ)といわれる土で固めた塀とその内と外に掘られた幅3m~5m 、深さ1m~1.5mの溝で方形に囲まれていました。全体の面積はおよそ46万㎡(東京ドーム9つ入る大きさ)あります。その内部は中央南寄りに一辺90m四方の塀で区画された政庁域(せいちょういき)、そのわきに官衙(かんが)や厨(くりや)などが広がっていました。"

とありました。東京ドームが9つ入る大きさだったそうです。よほど朝廷は蝦夷を怖れ、蝦夷を鎮めることに注力したのだと思わされます。



やや小高くなっているところが門や正殿のあとです。現在では何も残っていません。周りには住居が点在して、畑や田んぼがあり、そこには日常の生活があります。
胆沢城跡


ここは正殿跡です。
正殿跡


このような正殿が建っていたそうです。18m×12mの建物で、瓦屋根でした。柱は朱塗り、壁は漆喰(しっくい)で連子窓(れんじまど)として復元図が描かれています。
正殿跡


県道を渡ると、外郭南門跡の看板がありました。
外郭南門跡


外郭南門跡近くの田んぼで、発掘調査が行われていました。溝の部分が見て取れます。
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県道270号線を金ヶ崎方面に少し進むと、鎮守府八幡宮の鳥居がありました。胆沢城の鬼門の方角に配置されています。
鎮守府八幡宮 

坂上田村麻呂が蝦夷征討した際、勧請して崇敬したそうです。嵯峨天皇宸筆の八幡宮寳印、坂上田村麻呂が奉納した剣と矢、源義家が奉納した弓、伊達氏奉納の刀などの貴重な品が納められたそうです。



胆沢城跡は蝦夷征討の歴史を現在に伝える貴重な史跡です。阿弖流為がいた1200年前の風景を思い浮かべ、「阿弖流為が胆沢城に投降した真意を知りたい」という想いを巡らせました。