2009年10月22日放送のNHKブラタモリ第4回「銀座」で紹介していた、喫茶店を突き抜ける路地を通ってきました。別の要件で銀座に来たのですが、ふと思い出したのがこの路地のことです。
悲しいかな、ブランドショップや高級デパートには全く興味がなく、"せっかく銀座に来たのだから"と路地に行ってみることにしました。 (これでいいのか・・・?)
簡単に銀座の歴史に触れておきます。
銀座2丁目にある「銀座発祥の地」碑によると、以下のように書かれています。
"慶長17年(1612) 徳川幕府此の地に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置す 当時町名を新両替町と称せしも通称を銀座町と呼称せられ 明治2年逐に銀座を町名とする事に公示さる 昭和30年4月1日建之 銀座通連合会"
「銀座」は、江戸時代に銀や銀貨の鋳造や取締りを行った役所の呼称だったようです。
ブラタモリの説明によると、江戸初期の銀座は江戸前島という江戸湾に突き出た場所にあったようです。後に海が埋め立てられて、日本橋から東海道が通されました。東海道は尾根沿いに通されたそうです。
東海道は現在の銀座通りです。 そうです、銀座通りはわずかにですが尾根になっているのです。
(銀座4丁目交差点の和光ビル。昭和7年建築で、銀座と銀座通りのシンボル的ビル)
銀座の区画は江戸時代の都市計画により、東海道を基準にして区画されました。現在の銀座はこの区画がほぼそのまま残っています。
区画は120mを基準にしていたようです。平安京の京都も東西南北に大路、小路で約120m(40丈)で区画されていました。120mというのが歩くのにリズムがいいということでした。昔の建物の規格によるところもあるのだと思われます。
現在は40mごとに新しい通りが通されています。江戸時代からの道には段差がある歩道があり、新しい通りの歩道には段差がありません。
さて、路地の話に戻ります。
明治になり、新橋まで鉄道が開通したことで、銀座にも外国人が多く訪れるようになります。明治の近代化を外国人にアピールするため、銀座の表通りには白い煉瓦街が作られたそうです。テーマパークのような街だったようです。
明治の銀座には多くの人が暮らしていました。表通りの煉瓦街と裏での人々の生活が共存できるように路地が作られたそうです。
この様にして明治時代に多くの路地が作られ、現在も残っています。
ブラタモリで紹介されていた路地を探しに行きます。路地の中に稲荷神社があったことを思い出しました。
勘を研ぎ澄まして歩いていると、「豊岩稲荷神社」という見覚えのある石柱を見つけました。
中に進むとお稲荷さんが見えてきます。
江戸初期からこの地にあった神社です。火防、縁結びとして信仰を集めてきたそうです。
神社の前を通り、左に曲がると、細い路地にぶつかります。ここのようです。
路地を進むとガラスの扉が正面に見えてきます。
ガラスの扉に近づいてみると、「通り抜けできます」の文字が見えます。わざわざ「通り抜けできます」と書いてあるところが素晴らしいと思います。
自動ドアを通り抜けると、喫茶店の店内が見えてきました。店内の床に白いラインがひかれています。ラインの両側が喫茶店の店舗になっています。喫茶店の店舗内を路地が通っているのです。少し申し訳ない気持ちで店内を、いや路地を通り抜けてみました。
喫茶店が閉店すると、白いライン上ににシャッターが下りるようです。喫茶店内も24時間通れる路地なのです。
反対側の自動ドアを抜けると、また路地に戻りました。
ビルを建て替えるときに路地をまたいで土地を買い、ビルを建設することになったそうです。その際、地元の人たちが路地を残してほしいと要望して、喫茶店内に路地が残ることになりました。
喫茶店内に路地が通っているとは、ほとんどのお客さんは知らないと思います。コーヒーを飲んでいると、店内を人が横切るのです。不思議な光景です。
ブラタモリでタモリさんが「面白いから、もう1回行ってくる」と、スタッフもカメラさんも置いて1人で一周してきた気持ちが分かります。
通り抜けるだけでは申し訳ないので、表通りから喫茶店(ルカフェドトール銀座中央通り店)に入り、「ジンジャーマサラチャイ」を頂きました。美味しいだけでなく、体がとても温まりました。
高級ブランドやデパートが立ち並ぶ銀座ですが、江戸や明治の名残りを感じることが出来ました。なかなか足が向かない街でしたが、次回はもっとゆっくり歩いてみたいと思います。