石畳が残る大人の街、神楽坂の散歩コースを紹介します。地図は最後に。
飯田橋の駅から神楽坂下交差点に向かいます。
神楽坂下
神楽坂
坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。
不二屋 ペコちゃん焼き
日本でここだけで売られている「ペコちゃん焼き」が名物です。
神楽坂仲通り
神楽坂通りのロイヤルホスト手前を右に曲がります。ここから神楽坂の迷宮に入り込みます。
軽子坂
仲通りを進むと少し大きな通りになります。そこの坂が「軽子坂」です。昔、飯田濠に船着場があったそうです。
軽子坂
この坂名は新編江戸志や新撰東京名所図会などにもみられる。
軽子とは軽籠持の略称である。今の飯田濠にかつて船着場があり、船荷を軽籠(縄で編んだもっこ)に入れ江戸市中に運搬することを職業とした人がこの辺りに多く住んでいたことからその名がつけられた。
かくれんぼ横丁
かくれんぼ横丁は、神楽坂仲通りと兵庫横丁を結ぶ横丁となります。遊びに来た人が後ろからつけられても横丁に入ると分からなくなることから名付けられたとか。石畳と黒塀が昔からの雰囲気を感じられる佇まいです。
本多横丁
神楽坂の中では大きな横丁です。往時に本多家の屋敷があったことが名前の由来です。本多家は、江戸時代の大名格の武家でした。
芸者新道
本多横丁を神楽坂通りに進む途中、芸者新道があります。神楽坂に置屋、料亭が多くあったころの花街の名残を残しています。
たつみや 柳川どぜう
風情のある建物です。
五十番 肉まん
神楽坂通りに戻ると肉まんが人気の「五十番」があります。
見番横丁
通りを渡って見番横丁に入ります。こちらも風情がある横丁です。横丁の名前は平成23年に新宿区が設定したそうです。
伏見火防稲荷神社
見番横丁に入った場所にある、火防のお稲荷さんです。
見番横丁から細い路地を進みます。
カーブが良い感じの階段を下ります。
鳥茶屋別亭
鳥茶屋の別亭、うどんすきや親子丼が人気のお店です。
鶏肉、野菜がたっぷりのうどんすきです。
独特の太いうどんが名物です。
熱海湯 銭湯
鳥茶屋別亭から下った通りに「熱海湯」という昔ながらの銭湯が残っていました。
泉鏡花・北原白秋旧居跡
東京理科大学の入り口脇に泉鏡花・北原白秋旧居跡の石碑がありました。
"泉鏡花・北原白秋旧居跡
このあたりは、明治から昭和初期にかけて、日本文学に大きな業績を残した小説家泉鏡花の旧居跡である。
明治32年、硯友社の新年会で神楽坂の芸妓桃太郎(本名伊東すず)と親しくなり友人から借金をして明治36年3月、ここの借家に彼女と同棲するようになった。しかし師である尾崎紅葉に同棲を知られると厳しく叱責を受け、すずは一時鏡花のもとを去る。
この体験は「婦系図」に大きく生かされ、このすずがお蔦のモデルでもある。同年10月紅葉が没すると、すずを正式に妻として迎え明治39年7月までこの地に住んだ。
泉鏡花の旧居地であるこの場所は、北原白秋の旧居地でもある。
白秋は鏡花より遅れて明治41年10月から翌年10月に本郷動坂に転居するまでの約1年間をここで過ごしたが、その間の活動も素晴らしいものがあった。
当地に在学中の同42年5月に短歌「もののあはれ」63首を発表しており、このころから歌作にも力をそそぐようになった。なお、このあたりは物理学校(現・東京理科大学)の裏手にあたることから「物理学校裏」(大正2年7月刊「東京景物詩及其他」)という詩も残している。"
東京理科大の入り口に女子美術大学の学生の作品が置かれていました。
若宮公園
武家屋敷をイメージして整備された公園だそうです。
"江戸時代の通称「振り袖火事」(1657年)以降、雑木林や草原であった牛込地区に武家が移り住み、武家屋敷中心の街が形成されました。したがったこの公園は江戸時代の牛込を思い起こさせる武家屋敷をイメージした和風広場公園として整備しました。"
神楽坂若宮八幡神社
源頼朝公が奥州の藤原泰衡征伐に発行した際、当所にて下馬宿願したことに由来があるそうです。奥州平治後、鎌倉鶴岡の若宮八幡宮を分社したものです。
神社の横には井戸があります。ちゃんと水も出ていました。
宮城道雄記念館
現代邦楽の父と称される宮城道雄の記念館です。「春の海」などの名曲を残しました。
中町公園 防災用井戸
中町公園という公園の中には防災用の井戸がありました。 山の手の神楽坂ですが、この辺りは地下水が豊富なのでしょうか?
サルビアアトリエ
建物自体がアートなアトリエ。「児童絵画教室」だそうです。
牛込城跡 光照寺
戦国時代、光照寺一帯は牛込氏の城跡地とされています。
"新宿区登録史跡 牛込城跡
所在地 新宿区袋町15番地
登録年月日 昭和60年12月6日
光照寺一帯は、戦国時代この地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。
堀や城門、城館など城内の構造については記録がなく詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される。
牛込氏は、赤城山の麓上野国(群馬県)勢多郡大胡の領主大胡氏を祖とする。天文年間(1532~55年)に当主大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となった。
天文24年(1555年)重行の子の勝行は、姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近も含めて領有したが、天正18年(1590年)北条氏滅亡後は徳川家康に従い、 牛込城は取り壊される。
現在の光照寺は正保2年(1645年)に神田から移転してきたものである。
なお、光照寺境内には新宿区登録文化財「諸国旅人供養碑」、「便々館湖鯉鮒の墓」などがある。
平成七年八月
東京都新宿区教育委員会"
"この坂の上に光照寺があり、そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があった。それに因んで地蔵坂と呼ばれた。また、藁(わら)を売る店があったため、別名「藁坂」とも呼ばれた。"
相馬屋 文房具店
善國寺神楽坂毘沙門天
文禄4年(1595)、徳川家康により創建された善國寺。寛政4年(1792)、火事により神楽坂に移転してきました。
"新宿区指定有形民俗文化財 善國寺の石虎
所在地 新宿区神楽坂5丁目36番地
指定年月日 平成21年11月6日
安山岩製の虎の石像で、像高は阿形(右)が82センチ、吽形(左)は85センチで、台石・基壇部も含めた総高は、両像ともに2メートルをこえる。台石正面には浮彫があり、虎の姿を動的に表現している。
嘉永元年(1848)に奉納されたもので、阿形の台石右面には、「岩戸町一丁目」「藁店」「神楽坂」「肴町」などの町名と世話人名が刻まれ、寄進者は善國寺周辺の住民であったことがわかる。石工は原町の平田四郎右衛門と横寺町の柳沼長右衛門である。
善國寺は毘沙門天信仰から「虎」を重視し、石虎の造立も寄進者らの毘沙門天信仰によると考えられる。まら、台石に残された寄進者名や地名は、江戸時代後期における善國寺の毘沙門天信仰の広がりを示している。
石虎は都内でも珍しく、区内では唯一の作例である。戦災による傷みが見られるが、希少な石像であるとともに、地域にとっても貴重な文化財である。
なお、阿形の台石正面にある「不」に似た刻印は、明治初年のイギリス式測量の几号水準点で、残存している数は全国的にも少ない。
平成21年12月 新宿区教育委員会"
兵庫横丁
神楽坂通りから軽子坂までつながる横丁です。
鎌倉時代からの歴史がある道で、映画やテレビのロケでも使われる神楽坂を代表する石畳です。武器商人の町であったことが名前の由来だとか。
狭くなったり、曲がったり・・・、途中には階段もあって色々な風景を見せてくれます。
旅館和可菜の前です。
神楽坂おいしんぼの前から引き返しました。
寺内(じない)公園
鎌倉時代に創建された行元寺があった土地です。明治40年(1907)に品川区西五反田へ移転、この地が寺内(じない)と呼ばるようになったそうです。
"寺内じない公園の由来
この「寺内公園」の一帯は、鎌倉時代の末から「行元寺」という寺が置かれていました。御本尊の「千手観音像」は、太田道灌、牛込氏はじめ多くの人々が信仰したと伝えられています。寺の門前には古くからの町屋「兵庫町」があり、3代将軍家光が鷹狩りに来られるたびに、兵庫町の肴屋が肴を献上したことから「肴町」と呼ばれるようになりました。
江戸中期の天明8年(1788)、境内の東側が武家の住まいとして貸し出されるようになりました。この中に、貸地通行道(後の区道)という、人がやっとすれ違える細い路地がありました。安政4年(1857)頃、この一部が遊行の地となり神楽坂の花柳界が発祥したと伝えられています。明治4年(1871)には、行元寺と肴町を合わせて町名「牛込肴町」となりました。(昭和26年からは「神楽坂5丁目」になっています。)
行元寺は、明治40年(1907)の区画整理の際、品川区西五反田に移転し、大正元年(1912)に大久保通りができました。地元では、行元寺の跡地を「寺内」と呼び、味わい深い路地のある粋な花柳街として、昆沙門さまの縁日とともに多くの人々に親しまれ、山の手随一の繁華街として賑わっていました。
文豪、夏目漱石の「硝子戸の中」大正4年作(1915)には、従兄の住む寺内でよく遊んでいた若き漱石の神楽坂での思い出話がでてきます。また、喜劇王・柳家金語楼と歌手・山下敬二郎の親子や、女優・花柳小菊、俳優・勝新太郎、芸者歌手・神楽坂はん子などが寺内に住んでいました。このように多くの芸能人や文士に愛された「寺内」でもありました。
日本経済のバブル崩壊後、この一帯は地上げをうけましたが、その後の高層マンション建設に伴って、区道が付け替えられ、この公園ができることになりました。公園内には、地域の人たちのまちへの思いやアイデアが多く盛り込まれています。
いつまでも忘れることのない歴史と由緒あるこの地の思い出をこの「寺内公園」に託し、末永く皆様の思い出の場、憩いの場として大切に護り育てましょう。
平成15年3月吉日 新宿区"
茶寮
路地裏にある一軒家のカフェです。隠れ家的な和カフェというコンセプトですが、とても賑わっています。
マンヂウカフェ Mugimaru2
こちらは本当に隠れ家的なカフェです。店頭で販売されている饅頭も人気です。
神楽坂通りに戻ります。
梅花亭
昭和10年(1935)創業の老舗和菓子店。国産、無添加にこだわった素材を使った美味しい和菓子が並んでいます。一つからでも売っていて、好きな和菓子を組み合わせて買うこともできます。
浮き雲。
鮎の天ぷら最中、揚げたことで香ばしい最中になっています。
コボちゃん像
読売新聞朝刊に連載されている4コマ漫画「コボちゃん」の銅像です。原作者の植田まさしさんの地元が神楽坂だそうです。
貞
神楽坂通りから少し横道に入ると、雑貨や鞄、靴などが並ぶセレクトショップがあります。独自にセレクトされた職人や作家の商品がお洒落に並んでいました。
クラシコ書店 古本
貞とは反対側の道に入ります。外観がきれいな古本屋さんがあります。とても古本屋さんには見えません。
赤城神社
カフェが併設された現代風のお洒落な神社です。新国立競技場のデザインでも有名な隈研吾氏がデザインの監修を担当しています。
詳しくは(カフェ併設のおしゃれな神社「赤城神社」)
ちょうど、神前の婚礼が行われていました。
赤城坂
赤城神社近くのその名も「赤城坂」。
赤城神社のそばにあるのでこの名がある。『新撰東京名所図会』によれば、「...峻悪にして車通ずべからず...」とあり、かなりきつい坂だった当時の様子がしのばれる。
小路苑 花屋
赤城坂にある花屋さんです。 看板があるわけではないので、一見すると花屋さんとはわかりません。中ではワークショップが行われていました。
ねこの郵便局というなまえのお店
猫の雑貨などが所狭しと並んでいる面白いお店です。つい、足を止めてしまいました。
あかぎ児童遊園 リアルな象の滑り台が楽しい公園です。住宅街で見つけました。
詳しくは(妙にリアルな象の滑り台がある公園「あかぎ児童遊園」)
大洋レコード
ブラジルやアルゼンチン、スペイン、フランスなどの非英語圏のCD・DVDなどを販売しているレコード店だそうです。
la kagu(ラカグ)
衣服や雑貨等が売られる商業施設です。ちょっと高級な商品が並んでいました。
神楽坂に住むフランス人が、神楽坂という発音が難しいために「ラカグ」と呼ぶことがあるというのが名前の由来だそうです。赤城神社と同じく、隈研吾氏が建築デザインに関わっています。
AYUMI GALLERY
東西線神楽坂駅側の洋館。英国のハーフティンバー風木造建築の貸ギャラリーだそうです。1953年に建てられた洋館で、2011年に登録有形文化財に指定されています。街の雰囲気に合った建物でした。
石畳が印象的な神楽坂ですが、大人が楽しめる店が集まり、街の魅力を高めている印象でした。街全体がお洒落な雰囲気に包まれています。