旧東海道第一宿「品川宿」を巡る散歩を紹介します。歴史ある宿場「品川宿」は東海道の1番目の宿、東海道五十三次の第一宿です。 現在も江戸時代と同じ道幅に、商店街が続いています。旧東海道周辺には歴史ある史跡や江戸、明治、大正、昭和の趣を残した場所も点在しています。地図は最後に紹介します。
品川宿の歴史は慶長6年(1601)に東海道の第一宿と指定されたことに始まります。目黒川を境に、北に北品川宿、南に南品川宿があり、享保期には歩行新宿(北品川)が加わり、北宿、南宿、新宿にわかれていたようです。元々は、中世以来、港町であり漁師町でした。
他の街道の第一宿は、中山道が板橋宿、甲州街道が内藤新宿、日光街道・奥州街道が千住宿であり、江戸四宿と呼ばれていました。いずれの宿も、色町、遊廓、飯盛旅籠としても大変な賑わいだったようです。
品川宿内の家屋は1600軒、人口が7000人規模と活気のある町でした。
旧東海道「品川宿」を中心に、周辺を巡った散歩を紹介します。
八ツ山橋
JR品川駅から第一京浜を南に進むと八ツ山橋という鉄道史に名を刻む橋が見えてきます。初代八ツ山橋は日本初の鉄道を跨ぐ、日本初の跨線橋でした。
この橋は眺めているだけでも楽しい橋です。
橋の下を品川駅発着の東海道・山陽新幹線、JR山手線、京浜東北線、東海道線、横須賀線の各線が通り、目の前の鉄橋を京急線が横切っていきます。品川駅発着の鉄道が同時に通り抜けることもあります。詳しくは以前の記事「八ツ山橋(品川)から眺めるJR5路線と京急線」で。
八ツ山橋を渡り、左の遊歩道に折れると、左手には近代的なビルが立ち並んでいます。
右手には東京都交通局品川自動車車庫があり、バス用の大きな洗車機でバスを洗っていました。
交通局の前の道を進むと、先ほどのビル群とは対照的な風景となります。
突き当たりを右に折れると正面には看板建築の建物が見えてきました。
現在は「居残り連」というイタリアンのお店として活用されています。
「居残り連」の交差点を左に折れると、天ぷらの老舗「天婦羅うえじま」が見えてきました。以前は道路を挟んだ場所にあったと思うのですが、移転したようです。たぶん、看板は移転前から使っているものだと思います。
「天婦羅うえじま」を反対に見ながら進むと、左手に北品川橋という小さな橋があらわれます。親柱には大正14年9月竣工とあります。この橋近辺が「品川浦の舟だまり」として有名な場所です。
品川浦の舟だまり
橋の上から眺めると、手前に屋形船や釣り船、奥には近代的なビル群が立ち並びます。詳細は「品川浦の舟だまりと対照的なビル群の風景」をご覧ください。
ビル群の反対側を見ると、釣り船が係留されています。
歩道には風情のあるベンチが立ち並んでいました。
釣り船を正面からみると、こちらの風景も素晴らしいです。
鯨塚(利田神社)
舟だまりの横に鯨のオブジェと鯨の遊具がある公園があります。
公園の横に「鯨塚」があります。寛政10年(1798)に品川沖に迷い込み、品川浦の漁師達によって捕らえられた巨大鯨の供養碑です。
"この鯨碑(鯨塚)は、寛政10年(1798)5月1日、前日からの暴風雨で品川沖に迷い込んだところを品川浦の漁師達によって捕らえられた鯨の供養碑である。鯨の体長は九間一尺(約16.5メートル)高さ六尺八寸(約2メートル)の大鯨で、江戸中の評判となった。ついには11代将軍家斉が浜御殿(現、浜離宮恩賜庭園)で上覧するという騒ぎになった。
全国に多くの鯨の墓(塚・塔・碑など)が散在するが、東京に現存する唯一の鯨碑(鯨塚)である。また、本碑にかかわる調査から品川浦のように捕鯨を行っていない地域での鯨捕獲の法を定めていることや、鯨見物に対する江戸庶民の喧騒ぶりを窺い知ることができる貴重な歴史資料である。
平成19年3月1日 品川区教育委員会"
新設された鯨塚がもう一つありました。
「品川浦の生活」という案内板が設置されています。
室町時代から港として開け、江戸時代には漁業や海苔作りが盛んだったようです。江戸市中の行楽地でもあり、釣りや船遊び、潮干狩りで賑わっていたようです。今では想像もつきません。
「利田新地」の案内看板です。安永3年(1774)から埋め立てをはじめた3000坪の土地だそうです。
こちらが利田神社です。
鯨塚から旧東海道の品川宿にぐるっと戻ります。「居残り連」から品川宿に入ります。
旧東海道に向かう道は上り坂になっており、昔、このあたりまで海だったのだろうと想像を巡らせました。
坂を上りきると「北品川本通り商店街」となります。角には「問答河岸跡」という石碑が建っています。
問答河岸跡
江戸時代の頃、海岸に波止場があり、3代将軍家光が東海寺に入るとき、沢庵和尚が出迎えて問答した故事に由来します。将軍が「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」、和尚が「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」と問答したとか。
少し品川駅方面に進むと観光協会の建物があり、おさんぽマップなどが置いてありました。
旧東海道を南下します。
土蔵相模跡
ファミリーマートの前に「土蔵相模跡」という案内板があります。幕末の志士が密議をした大妓楼があった場所です。
高杉晋作らが品川の御殿山に建設中だったイギリス公使館を焼き討ちしましたが、決行前に集合した場所が土蔵相模だったと言われています。また、桜田門外の変を起こした水戸浪士達が最後の宴を行った場所でもありました。
"旅籠屋を営む相模屋は外壁が土蔵のようあ海鼠壁だったので、「土蔵相模」と呼ばれていました。1862年(文久2)品川御殿山への英国公使館建設に際して、攘夷論者の高杉晋作や久坂玄瑞らは、この土蔵相模で密議をこらし、同年12月12日夜半に焼き討ちを実行しました。幕末の歴史の舞台となったところです。"
旧東海道から、先ほどの舟だまり方面へ続く道です。かなり高低差があることが分かります。東海道のすぐそばまで海だったのです。舟だまりの辺りは海抜1mという表示があります。
大横町
大横町という案内板をみつけました。御殿山への横町で、他の横町に比べて広かったことから名が付けられたとか。「○○横町」という看板がところどころに設置されています。
少し変わった看板建築の建物がありました。
台場横町
こちらは台場横町です。浦賀へのペリー来航後に、江戸防衛のために砲台を設置する台場が築かれました。御殿山下台場へ下っていく横町が「台場横町」です。
"1853年(嘉永6)ペリー率いる4隻のアメリカ艦隊が浦賀に来航した後、幕府は江戸防衛のために、江川太郎左衛門の式で品川沖に品川台場の築造に着手しました。
当初計画では11基でしが完成したのは5基で、他に陸続きの御殿山下台場(現在の品川区立台場小学校)を完成させました。この御殿山下台場へ下っていく横町を台場横町と呼んでいます。"
台場横町の下り坂です。
折角なので御殿山下台場があった、その名も台場小学校に行ってみました。
御殿山下台場(砲台)跡
台場小学校の校門横にはミニチュアの灯台があります。
台場跡から発見された石垣で記念碑が建てられ、日本で3番目の洋式灯台を模したミニチュア灯台が建てられています。
詳しい案内板があります。小学校は台場の半分ほどの面積を占めているとか。台場の広さに驚きます。
台場跡から発見された石垣です。
再び、旧東海道に戻ります。
黒門横町
黒門横町という案内板です。東海寺に入る横町だそうです。
三浦屋
黒門横町を少し進んだ「三浦屋」という天ぷら店でお昼にしました。
詳しくは「船宿天ぷら「三浦屋」(東京 北品川)の極上丼で極上気分」をご覧ください。
極上丼(1300円)を注文しました。天丼の具は「穴子、きす、めごち、えび、ししとう」です。一番奥に写っている横に長い天ぷらが穴子です。
美味しい天丼でお腹を満たして旧東海道に戻ります。
お休み処はお休みでした...。
日本橋より二里
品海公園の入り口に「日本橋より二里、川崎宿へ二里半」の石碑があります。
「東海道品川宿」の案内板もあります。
溜屋横町
少し進むと、石柱が食い込んでいる建物があります。そこには「溜屋横町」の案内板があります。
法禅寺の前から海岸へでる横町だそうです。
丸屋履物店
慶応元年創業という老舗はきもの店です。下駄や草履が売られています。残念ながら、定休日でした。
隣の建物との間の路地は昭和を感じさせます。
虚空蔵横町
旧東海道から養願寺へ入る横町です。
養願寺の本尊が虚空蔵菩薩で品川の虚空蔵さまとして親しまれているそうです。
虚空蔵横町を進むと"虚空蔵さま"養願寺が見えてきます。
虚空蔵横町を更に進んで行きます。歴史を感じる古いレンガの壁が見えてきます。更に路地を進みます。
小泉長屋跡
小さな公園があり、「小泉長屋」の案内板があります。小泉屋金左衛門が貸長屋を建てたことから小泉長屋と呼ばれたそうです。
この小泉長屋周辺には複数の井戸が残っています。
裏路地には今も井戸が残っています。
於春(おはる)稲荷という神社を見つけました。
於春稲荷と旧小泉長屋という案内板が設置されています。於春という名称の由来には諸説あるようです。
小泉長屋の裏路地ではゆったりとした空気が流れていました。再び、旧東海道に戻ります。
旧東海道沿いに懐かしいホンダCITYの看板を見つけました。
旧東海道沿いには、このような路地が点在しています。
品川本陣跡
聖蹟公園の入り口に品川本陣跡の案内板をみつけました。本陣とは、宿場で大名や旗本、公家などが休息や宿泊するところです。
"江戸時代の本陣は宿場で大名や旗本、公家などが休息や宿泊するところで、品川宿には初め南北品川宿に一軒ずつありましたが、江戸中期には北品川宿のみとなりました。
大名などが宿泊すると本陣には大名の名を記した関札を立て、紋の入った幕をめぐらしました。
明治維新後、京都から江戸へ向かった明治天皇の宿舎(行在所)にもなったところです"
聖蹟公園内に多くの石碑が立ち並んでいました。
聖蹟公園を出て、北品川温泉「天神湯」の横を通り、北馬場参道通り商店街に向かいます。
北馬場参道通り商店街です。
北馬場参道通り商店街にも看板建築の建物が残っていました。
品川神社
品川の北の鎮守「北の天王」品川神社に向かいます。詳しくは「品川神社参拝と富士塚登山で御利益アップ」をご覧ください。
品川神社には富士塚があり、頂上から旧東海道方面を一望できます。
品川神社の拝殿です。
品川神社から山手通りに向い、東海禅寺に行きましたが工事中で入れませんでした。
東海禅寺の近くのビルには東海道の浮世絵のレプリカを飾っています。
第一京浜の東海橋は渡らずに、目黒川沿いを歩きます。
目黒川沿いには遊歩道が整備されています。
遊歩道を進むと、鎮守橋という赤い橋が見えてきました。荏原神社に近い橋ということで鎮守橋という名前になったようです。
荏原神社
品川の南の鎮守「南の天王」が荏原神社です。 和銅2年(709)に奈良の元官幣大社・丹生川上神社より高龗神(水神)の勧請を受けて創建されました。 かなり古い歴史を持つ神社です。
東海七福神の中の1社であり、恵比須さまを祀っています。
現在の社殿は弘化元年(1844)のものだそうです。木造の歴史ある建造物です。
こちらは神楽殿です。
品川橋
荏原神社から目黒川沿いを進むと旧東海道に戻ります。北品川と南品川を結ぶ品川橋を渡ります。
江戸時代には「境橋」と呼ばれていたようです。「行合橋」や「中の橋」とも呼ばれていたようです。昔から北品川宿と南品川宿を渡す重要な橋だったと思います。
橋を渡ると南品川宿の案内板があります。
南品川宿に入りました。
この看板建築の建物がある交差点を左に折れ、旧東海道の裏通りに進みます。
海沿いだったことをしのばせる高い塀
こちらの通りには、かつてこの辺りが海だったことをしのばせる高い塀が残っています。東海道のすぐそばまで海だったのです。 昭和初期に埋め立てられ、東品川という土地が出来ました。
古い石垣が残っています。
旧東海道に戻ります。
大正時代の建物だという松岡畳店です。
ジュネーブ平和通りという変わった名前の通りです。この先には京急の青物横丁駅があり、さらに先には仙台坂があります。
ジュネーブ平和通りを渡ります。石畳が続いています。
品川寺
品川寺は「ほんせんじ」と読みます。東海七福神の毘沙門天を祀っています。弘法大師空海を開山として、大同年間(806-810年)に創建されたという古い歴史をもつお寺です。
江戸六地蔵の第一番である地蔵菩薩像です。江戸の入口6か所に建立された江戸六地蔵のうちのひとつです。他に浅草、新宿、巣鴨、深川に2カ所(1体は明治初期に壊され、のち上野に再建)に江戸六地蔵があるそうです。
境内には多くの石像があります。
ジュネーブ平和通りの名前の由来となった鐘楼です。明暦3年(1657)、四代将軍家綱の寄進とされています。
慶応3年(1867)にパリ万国博覧会に出展して返却時に行方不明となります。その後、スイスのジュネーヴのアリアナ博物館で発見され、昭和5年(1930)に品川寺に戻されました。
平成3年(1991)、鐘楼の縁で品川区とジュネーヴ市は友好都市の提携が結ばれました。
こちらが本堂です。中国のお寺のような伽藍です。
推定樹齢600年とされる大イチョウがあります。樹高25メートル、幹の周囲は5メートルを超えます。ぎんなんは「厄除け開運ぎんなん」とされているそうです。
品川寺を跡にして、旧東海道を進みます。海雲寺が右手にあります。
交差点にぶつかり、右手の方には旧仙台坂(くらやみ坂)が見えます。
旧仙台坂(くらやみ坂)が見える交差点を渡り、旧東海道をさらに進みます。
この辺りは鮫洲商店街です。
行列が出来るコッペパン屋さんがありました。 並ぼうかと悩みましたが、我慢しました...。
こちらは釣り堀です。
この先から右に曲がり、鮫洲駅を超えて行きます。
鮫洲駅を過ぎて第一京浜を渡ります。大井公園の左手に進んでいきます。
山内豊信(容堂)墓所
土佐藩15代藩主、山内豊信(容堂公)の墓に向かいます。坂本龍馬ら、幕末に活躍した志士を輩出した土佐藩で当時の藩主でした。隠居後も藩政の実権を握り続けていたのが容堂公です。
尊王攘夷を掲げて結成された土佐勤皇党を弾圧しますが、大政奉還を15代将軍徳川慶喜に建白したのも容堂公でした。
かなり静かな道を進んでいくと鉄製の柵があり、その先に階段が見えてきます。
立会小学校の校庭が隣接しています。小学校が建つ前には現在の校庭内にお墓があったようです。遺言によって大井村の下総山(土佐山)と呼れていた現地に葬られたそうです。
お酒が好きだったという容堂公ですが、墓前にはお酒が供えられていました。
品川区教育委員会の案内板があります。45歳の若さで亡くなったそうです。 意外でした。
"山内豊信は容堂と号した。文政10年(1827)に分家の山内豊著の長子として生まれ、嘉永元年(1848)に宗家を継いで第15代土佐国高知藩主となり、人材を登用して藩政の刷新に努めた。一方、国政についてもいろいろと議論し、策を建てて多難な幕末期の幕政に大きな影響を与えた。
進歩的で強力なその言動は、幕閣に恐れを抱かれ、一時、大井村の下屋敷に蟄居させられたが、文久2年(1862)に再び政治の場に復し、大政奉還をはじめ幕府と朝廷の間の斡旋に力を尽くした。明治元年(1868)に維新後の新政府の内閣事務総長となったが、翌年引退し、明治5年に45歳の若さで亡くなった。遺言によって大井村の下総山(土佐山)と呼れていた現地に葬られた。
平成11年3月31日 品川区教育委員会"
旧仙台坂(くらやみ坂)
大井公園を通り抜け、旧仙台坂(くらやみ坂)に向かいます。仙台藩伊達陸奥守の下屋敷があったことから仙台坂と呼ばれていました。下屋敷は2万坪もあったとか。
現在は青物横丁駅に抜ける道が拡幅されて交通量が増えたために、そちらの坂を仙台坂と呼ぶようになりました。
坂を上り、大井町駅方面に向かいます。
八木合名会社「仙台味噌醸造所」(品川区東大井)
江戸時代にこの地にあった仙台藩伊達陸奥守の下屋敷では、寛永2年(1625)から味噌蔵をもって醸造をしていたそうです。
江戸在勤の3000人もの食を支えるためにも味噌が必需品でした。当時、江戸の甘い味噌が伊達藩の武士の口に合わなかったのです。
江戸時代には一般にも販売するようになり、仙台味噌と呼ばれるようになります。
明治になり、伊達藩は味噌蔵を八木久兵衛に払い下げ、合名会社が設立されました。
大井町駅に向かいます。駅の手前で右手に曲り、すずらん通りに入ってみました。飲み屋さんがいっぱいあります。
左手に見える「肉のまえかわ」は、立ち飲みのお客さんで賑わうお店です。お休みでした。
路地にはぎっしりとお店が連なっていました。
JR品川駅付近は再開発により近代的なビル群が立ち並んでいます。一方、旧東海道の品川宿沿いには江戸、明治、大正、昭和と歴史を感じる趣ある建物や史跡が残っています。江戸から現在までの歴史が混在しており、街歩きには最高に楽しい場所でした。
今回、散歩した地図です。
より大きな地図で 旧東海道第一宿「品川宿」を巡る散歩。 を表示