東京前編(上野・浅草・銀座)に続き、後編では文京区(湯島、本郷、小石川)を巡ります。地図は最後に紹介します。
今年は石川啄木が26歳の若さで亡くなってから100年となります。石川啄木没後百年記念事業が各地で開催されるようです。特に出身地である岩手県盛岡市では実行委員会を立ち上げ、各種記念事業が計画されています。
啄木は南岩手郡日戸(現在の盛岡市玉山区日戸)に生まれ、渋民村や盛岡市内で暮らします。東京で挫折したのち、北海道に渡り、再び夢を追って東京に戻ります。
22歳から亡くなる26歳までの旧居などのゆかりの地と周辺の旧跡などを紹介します。マップは最後に紹介します。
かなり寄り道が多くなってしまいました...。
湯島と本郷の散歩は下記の記事でも紹介しています。
上野・湯島、「明治・大正の文豪達に出会える 」本郷を散歩(後編)。
文京区には、森鴎外、夏目漱石、樋口一葉、坪内逍遥などの文豪たちが居を構えました。岩手県出身の石川啄木、宮沢賢治のゆかりの地も文京区内にあります。
石川啄木は文京区内の6か所に居住しました。文京区内の居住地において、多くの歌が生まれました。
銀座線上野広小路駅から春日通りを湯島方面に向かいます。
切通坂(きりとおしざか)
啄木が朝日新聞社での夜勤の帰りに通った道です。湯島の台地から御徒町に道を通すために新しく切り開いた坂なので「切通坂」という名前になったそうです。
はじめは急な坂でしたが、明治37年(1904)に上野広小路と本郷三丁目の間に電車が通り、緩やかになったそうです。啄木が通っていた頃は緩やかな坂になった後でした。
案内板があります。
"「御府内備考」には「切通は天神社と根生院との間の坂なり、是後年往来を聞きし所なればいふなるべし。本郷三、四丁目の間より池の端、仲町に達する便道なり、」とある。湯島の台地から、御徒町方面への交通の便を考え、新しく切り開いてできた坂なので、その名がある。
初めは急な石ころ道であったが、明治37年(1904)上野広小路と本郷三丁目間に、電車が開通してゆるやかになった。
映画の主題歌「湯島の白梅」"青い瓦斯灯(がすとう)境内を 出れば本郷切通し"で、坂の名は全国的に知られるようになった。
また、かって本郷三丁目交差点近くの「喜之床」(本郷2-38-9・新井理髪店)の二階に間借りしていた石川啄木が、朝日新聞社の夜勤の帰り、通った坂である。
二晩おきに 夜の一時頃に切通しの坂を上りしも 勤めなればかな
石川啄木
― 郷土愛をはぐくむ文化財― 文京区教育委員会 平成11年3月"
湯島天神へ通じる階段を横切ります。
湯島切通坂石川啄木歌碑
切通坂にある石川啄木歌碑です。
切通坂に由来する歌が刻まれています。この文字は原稿ノートの自筆を刻んだものだそうです。 素朴な字ですね。
二晩おきに
夜の一時頃に切通しの坂を上りしも
勤めなればかな
歌碑には文京区教育委員会の案内板がありました。
"この歌は、石川啄木(1886~1912)の明治43年(1910年)の作で、『悲しき玩具』に収められている。文字は、原稿ノートの自筆を刻んだ。
当時啄木は、旧弓町の喜之床(現本郷2-38-9・新井理髪店)の2階に間借りしていた。そして一家5人を養うため、朝日新聞社に校正係として勤務し、二晩おきに夜勤もした。
夜勤の晩には、終電車で上野の広小路まで来たが、本郷三丁目行きの電車はもう終わっている。湯島神社の石垣をまさぐりながら、暗い切通坂を、いろいろな思いを抱いて上ったことであろう。
喜之床での2年2か月の特に後半は、啄木文学が最高に燃焼した時代である。この歌は、当時の啄木の切実な生活の実感を伝えている。
文京区内で最後に残っていた啄木ゆかりの家"喜之床"が、この3月18日に犬山市の博物館「明治村」に移築、公開された。
昭和55年5月3日 文京区教育委員会"
一家5人の生活のため、深夜この坂を家路についたのです。
切通坂を上っていくと、右手の奥まったところに麟祥院が見えてきます。反対側の通りはサッカー通りで、「日本サッカーミュージアム」につながります。(「日本サッカーミュージアム」に行って来ました)
麟祥院 ※寄り道
春日局のお墓がある「天澤山 麟祥院」に立ち寄ります。詳しくは別の記事(春日局が眠る「天澤山 麟祥院」(文京区湯島)を訪ねる)で紹介しています。
春日局の墓です。四方に穴が貫通した珍しい形をした墓石です。
春日通りに戻り、先に進みます。
途中には昔ながらの江戸あられのお店があります。
本郷消防署の横を抜けて、東京大学構内に入ります。目的は腹ごしらえです。
ITALIA家庭料理 Capo PELLICANO(カポ・ペリカーノ)本郷店 ※寄り道
東京大学医学部研究棟13階に美味しいイタリアンがあるというのを教えてもらい、行ってみました。
窓際の席に着くと、目の前にスカイツリーが見え、見晴らしがとてもよかったです。
ショートパスタセット(パン・コーヒー付)を頼みました。パスタは牛バラ肉のラグーソース リガトーニです。景色を楽しみながら美味しい料理を頂きました。
旧前田侯爵邸(懐徳館)西洋館の基礎 ※寄り道
春日通りに近い門(懐徳門)に向かうと、煉瓦の塊が無造作に置かれていました。案内板を見ると「旧前田侯爵邸(懐徳館)西洋館の基礎」とあります。これだけ大きな基礎から想像すると、建物はかなり立派なものだったと思われます。
案内板です。 かなり大規模な洋館だったことが分かります。
" この煉瓦の塊は、平成6年に総合研究資料館の増築に伴う発掘調査で発見された、旧前田侯爵邸(懐徳館)西洋館の基礎の一部である。玄関脇の地下1階の小室部分にあたる。最下の捨コンクリートの上に煉瓦がしっかりと積み上げられ、中ほどにアスファルトの防水層、床支持材の溝、切石の幅木が回る。
この地区は、旧加賀藩主前田侯爵家の敷地であった。当主前田利嗣は明治天皇行幸のために屋敷・庭園の整備を企画し、明治40年に西洋館が竣工した。ルネッサンス風のデザインで地上2階、地下1階の大規模な建築であった。大正12年の関東大震災の後、建物と庭園は東京大学の迎賓施設「懐徳館」となったが、昭和20年3月10日の東京大空襲で炎上し、取り壊された。
重厚で頑丈な基礎は、かつての優れた西洋館の姿を偲ばせるわずかな遺物である。"
春日通りに戻り、本郷三丁目の交差点に向かいます。
本郷も かねやすまでは 江戸の内 ※寄り道
本郷三丁目の交差点にある洋品店「かねやす」さんには川柳の看板があります。この辺りを境に江戸の町並みは変わっていたようです。
詳しくは以前の記事(「本郷も かねやすまでは 江戸の内」)で。
「かねやす」を過ぎ、春日通りを進みます。最初の交差点に理容アライがあります。
喜之床(きのとこ)旧跡 石川啄木旧居
現在の理容アライは石川啄木が2階に間借りしていた「喜之床(きのとこ)旧跡」です。北海道から単身で東京に渡り、家族を呼び寄せた際に住んでいたのが「喜之床」の2階でした。評価が高い作品が多く生まれたのがこの「喜之床」でした。
現在の「理容アライ」の看板には「喜之床」往時の写真が貼ってありました。
「啄木ゆかりの地喜之床旧跡」の案内板。 家族5人を呼び寄せて、心機一転、新生活をはじめた地です。
"石川啄木は、明治41年(1908)5月、北海道の放浪生活を経て上京し、旧菊坂町82番地(本郷5‐15・現オルガノ会社の敷地内)にあった赤心(せきしん)館に金田一京助を頼って同宿した。
わずか4か月で、近くの新坂上の蓋平館別荘(現太栄館)の3階3畳半の部屋に移った。やがて、朝日新聞社の校正係として定職を得て、ここにあった喜之床という新築間もない理髪店の2階2間を借り、久し振りに家族そろっての生活が始まった。それは、明治42年(1909)の6月であった。
5人家族を支えるための生活との戦い、嫁姑のいさかいに嘆き、疲れた心は望郷の歌となった。そして、大逆事件では社会に大きく目を開いていく。啄木の最も優れた作品が生まれたのは、この喜之床時代の特に後半の1年間といわれる。
喜之床での生活は2年2ヶ月、明治44年の8月には、母と妻の病気、啄木自身の病気で、終焉の地になる現小石川5‐11‐7の宇津木家の貸家へと移っていく。そして、8か月後、明治45年(1912)4月13日、26歳の若さでその生涯を閉じた。
喜之床(新井理髪店)は明治41年(1908)の新築以来、震災・戦災にも耐えて、東京で唯一の現存する啄木ゆかりの旧居であったが、春日通りの拡幅により、改築された。昭和53年(1978)5月啄木を愛する人々の哀惜のうちに解体され、70年の歴史を閉じた。旧家屋は、昭和55年(1980)「明治村」に移築され、往時の姿をとどめている。 現当主の新井光雄氏の協力を得てこの地の標識を設置した。
かにかくに渋民村は恋しかり
おもいでの山
おもいでの川 (喜之床時代の作)
―郷土愛をはぐくむ文化財-文京区教育委員会 平成4年10月"
「理容アライ」から真砂坂上交差点に向かい、菊坂方面に渡ります。
文京ふるさと歴史館 ※寄り道
文京区の歴史や文化財を展示した見どころのある歴史館です。
諸井邸(秩父セメントを創設) ※寄り道
歴史館の隣には立派なお屋敷があります。明治39年に建てられた邸宅です。
当時の煉瓦塀が残っています。
そのまま道を進むと坂道に突き当たります。
炭団坂(たどんざか) ※寄り道
本郷の台地より菊坂方面へ下る急な坂道です。 炭団は炭にふのりなどを混ぜて球状に固めた燃料のことです。「炭団などの商売をする者が多かった」、「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」というのが名前の由来だそうです。今ではきれいな階段の坂道になっています。
案内板によると、坂上部の崖の上に、坪内逍遥が住んでいたそうです。
炭団坂をくだった先の細い道路を進みます。この先が菊坂下通りという細い路地になります。菊坂下通りを右折します。
宮沢賢治旧居跡 ※寄り道
菊坂に通じる階段に啄木と同じ岩手県出身の宮沢賢治の居住跡があります。大正10年(1921)1月に上京して8月まで暮らした場所です。この地で多くの作品が生まれました。
階段横に文京区教育委員会の案内板があります。
"宮沢賢治〔明治29年(1896年)-昭和8年(1933年)〕は詩人・童話作家。花巻市生まれ。大正10年(1921年)1月上京、同年8月まで本郷菊坂町75番地稲垣方2階6畳に間借りしていた。菜食主義者で馬鈴薯と水の食事が多かった。
東京大学赤門前の文信社(現大学堂メガネ店)で謄写版刷りの筆耕や校正などで自活し昼休みには街頭で日蓮宗の布教活動をした。これらの活動と平行して童話・詩歌の創作に専念し、1日300枚の割合で原稿を書いたといわれている。童話集『注文の多い料理店』に収められた「かしわばやしの夜」、「どんぐりと山猫」などの主な作品はここで書かれたものである。
8月、妹トシの肺炎の悪化の知らせで急ぎ花巻に帰ることになったが、トランクにはいっぱいになるほど原稿が入っていたという。
-郷土愛をはぐくむ文化財- 文京区教育委員会 平成9年3月"
菊坂下を進むみ、ぶつかった坂道を少し上ります。
真砂遺跡(まさごいせき) ※寄り道
江戸時代の宝永元年(1704)から安政5年(1858)までのおよそ150年間、唐津(佐賀県)藩主の中屋敷、そして幕末までの上田(長野県)藩主の中屋敷があった場所です。
案内板によると、武家屋敷の生活を知る貴重な遺構や遺物が発掘されたそうです。
真砂遺跡の案内板近くに「菊坂界隈文人マップ」があります。菊坂周辺がいかに文人に愛されていたかが分かります。
啄木の名前を4つ見つけました。居跡3つと質屋1つです。
坂をくだり、菊坂に向かいます。菊坂通り商店街を歩きます。
菊坂
菊の花を作る人が多く住んでいたことが名前の由来です。 啄木もこの通りを行き来していたと思います。
菊坂通り商店街外灯 当地ゆかりの文人達 石川啄木
菊坂通り商店街の外灯にはゆかりの文人達を紹介した板が設置されています。石川啄木の外灯がどのあたりだったかは忘れてしまいました...。比較的本郷通り寄りだったと思います。
赤心館跡 石川啄木旧居跡
啄木が北海道から文学への志をもって上京した際、友人の金田一京助を頼って同宿したのが赤心館です。現在はオルガノ株式会社の社屋になっています。
赤心館では4か月の生活でした。わずか1か月に小説5編、原稿用紙300枚を書き上げたそうです。しかし、作品は売れなかったようです。失意の中で多くの短歌が生まれました。
下宿代が払えず、金田一京助の援助で共に下宿「蓋平館別館」に移ります。
赤心館から啄木が移った蓋平館(がいへいかん)別館に向かいます。
菊坂を下り、途中右に折れて坂を上っていきます。
途中、鳳明館(ほうめいかん)に寄ります。
鳳明館(ほうめいかん) ※寄り道
本館は平成12年に登録有形文化財になっています。明治30年代に建築され、昭和初期に改造が施されています。木造地上2階地下1階建の造りです。当初は下宿屋で、昭和20年に旅館建築に模様替えされました。各室毎に異なった銘木が使われているそうです。
こちらは隣接する別館の玄関です。 こちらも趣がある建物です。
住宅地を抜けていきます。気になる喫茶店を見つけました。
昭和12年に銀座で営業を始め、神田、新橋、虎の門と営業をしてきたそうです。珈琲200円よりも高いACCジュース300円が気になります。
更に住宅街を進みます。
蓋平館(がいへいかん)別荘跡 石川啄木旧居跡
菊坂の赤心館から金田一京助と共に移ったのが下宿「蓋平館(がいへいかん)別荘」です。現在は太栄館という旅館になっています。啄木下宿当時の建物は昭和29年に焼失しています。
玄関横には案内板と歌碑があります。
"石川啄木ゆかりの蓋平館別荘跡(東京都文京区本郷6-10-12 太栄館)
石川啄木(一・1886~1912)は、明治41年(1908年)5月、北海道の放浪から創作生活に入るため上京し、赤心館(オルガノ工場内・現本郷5-5-6)に下宿した。小説5篇を執筆したが、売込みに失敗、収入の道なく、短歌を作ってその苦しみをまぎらした。前の歌碑の「東海の・・・・・・・」の歌は、この時の歌である。
赤心館での下宿代が滞り、金田一京助に救われて、同年9月6日、この地にあった蓋平館別荘に移った。3階の3畳半の室に入ったが、「富士が見える、富士が見える」と喜んだという。
ここでは、小説『鳥影(ちょうえい)』を書き、東京毎日新聞社に連載された。また、『スバル』が創刊され、啄木は名儀人となった。北原白秋、木下杢太郎や吉井勇などが編集のため訪れた。
東京朝日新聞社の校正係として定職を得、旧本郷弓町(現本郷2-38-9)の喜の床に移った。ここでの生活は9か月間であった。
蓋平館は、昭和10年頃大栄館と名称が変ったが、その建物は昭和29年の失火で焼けた。
父のごと 秋はいかめし
母のごと 秋はなつかし
家持たぬ児に (明治41年9月14日作・蓋平館で)
-郷土愛をはぐくむ文化財- 文京区教育委員会 昭和56年9月"
新坂
太栄館前の坂を下ります。新坂という坂です。啄木も上り下りした坂だと思います。かなりきつい坂道です。
名前は新坂ですが、江戸時代からある坂です。
文京区教育委員会の説明板には「二葉亭四迷、尾崎紅葉、徳田秋声など、文人が多く住んだ。この坂は、文人の逍遥(しゅよう)の道でもあったと思われる」とあります。
新坂を下り、左折すると菊坂下の交差点があり、菊坂に向かいます。
旧伊勢屋質店 樋口一葉ゆかりの質店 ※寄り道
樋口一葉が明治23年に近くの貸家に住んでから、生活費を工面するためにたびたび通った質店です。土蔵は外壁こそ関東大震災後に塗り直しましたが内部は往時のままだそうです。店の部分も明治40年に改築したものだそうです。
24歳の若さで亡くなった時に、伊勢屋の主人が香典を持って弔ったそうです。
菊坂下通りに再び下ります。
途中の路地に菊水湯という銭湯があります。 銭湯らしい建物です。
菊水湯の煙突です。
樋口一葉菊坂旧居跡 ※寄り道
樋口一葉が明治23年から25年に、母と妹と一緒にこの辺りに住んでいたそうです。一葉も使った井戸が残っています。(住宅地ですので、見学時は迷惑にならないよう注意が必要です)
細い階段を上って行きます。
突き当たりを右に曲がります。
坂道に突き当たり、左に曲がります。本当に坂の多い地域です。菊坂の通りは谷になっているようです。
金田一京助・春彦 旧居跡
盛岡中学校で啄木の2級上だったのが金田一京助です。石川啄木が上京の際に頼ったのが京助でした。啄木の最も良い理解者で、金銭的な援助をかなり行っていたようです。
京助は岩手県盛岡市出身、長男は国語学者の春彦です。
坂道を下ります。しばらく進みぐるりと左に曲がります。
右京山「旧東京市営真砂町住宅地」 ※寄り道
本郷台地西側の崖地が右京山です。右京山には江戸時代、高崎藩主松平右京亮の中屋敷があり、地名の由来となりました。
大正時代、この地域に「東京市営真砂町住宅地」が開発されます。大正12年(1923)から14年(1925)のことだったようです。関東大震災の年から開発が始まったことになります。
「東京市営真砂町住宅地」は当時東京市が供給した市営住宅で唯一中流階級をターゲットにした戸建て住宅が建設されます。かなりモダンな住宅で、中流階級を惹きつけるデザインでした。
マンサード型の屋根にフランス瓦という洋風住宅が建てられました。当時の東京市はなかなか粋なところがあったのだと思います。その住宅が一部残っています。
旧東京市営真砂町住宅第2期分(1923年)。
旧東京市営真砂町住宅第3期分(1925年)。こちらは階段を上って玄関に向かう造りになっていたようです。崖地を利用した造成で、当時としては珍しい造りで、モダンだったのだと思います。
この通りには清和公園(当時整備された住宅地の公園)があり、「右京山」という看板が立ててありました。
現在は児童公園として整備されています。
公園も崖地を活用しています。
坂を下ると、春日通りと白山通りが交わる春日町交差点に出ます。写真は本郷三丁目方面にある真砂坂です。
白山通りを後楽園遊園地の方に進むと、丸ノ内線が顔を出す陸橋があります。 丸ノ内線は時々、地上の顔を出します。車の上を通る地下鉄。
神田上水石樋(せきひ)の石 ※寄り道
再び春日町交差点に戻ると、交番がある角に神田上水石樋の石が置かれていました。神田上水といえば、江戸で最初に整備された上水道です。水源は井の頭池の湧水で、大洗堰(文京区関口)から水戸屋敷(小石川後楽園)に入り、ここから先は暗渠で通していました。ここにある石は暗渠で使われていた石樋です。
江戸時代に神田上水で使われた石樋の一部で、昭和62年、外堀通りの工事中に現在の水道橋付近から発掘されたものだそうです。
文京シビックセンター ※寄り道
文京区役所本庁舎が入るビルです。東京23区の区役所で最も高い建物だそうです。25階には展望ラウンジがあり、都内を一望できます。
詳しくは(文京シビックセンター」展望ラウンジからの眺めはちょっと怖い) で。
東京スカイツリーも見えます。
文京シビックセンターを出て、春日通りの富坂を少し上ります。
左手に礫川公園があり、入り口には春日局之像があります。
富坂下交差点に戻り、春日通りを渡ります。富坂下交差点を文京シビックセンターの上から見下ろすとこんな感じです。写真の右下から左上に通るのが春日通りです。右上の通りに向かいます。
こんにゃくえんま「源覚寺」 ※寄り道
眼病平癒の「こんにゃくえんま」として知られる寺院です。閻魔様と眼病だった老婆の言い伝えがあり、片目が曇った閻魔像が祀られています。
詳しくは(こんにゃくえんま「源覚寺」に伝わる閻魔様の慈悲に想う)で。
こちらが閻魔堂で閻魔像が祀られています。
こんにゃくえんまをあとにして、少し小道を進みます。
善光寺 ※寄り道
慶長7年(1602)の創建と伝えられている寺院です。江戸時代は伝通院(徳川将軍家の菩提寺)の塔頭で、縁受院と称しました。明治17年(1884)に善光寺と改称され、信州の善光寺の分院となります。
善光寺坂 ※寄り道
善光寺の前の坂は「善光寺坂」と名付けられています。
善光寺前に張る案内板を見ると面白い言い伝えが書いてありました。
"善光寺坂 小石川2丁目と3丁目の境
坂の途中に善光寺があるので、寺の名をとって坂名とした。善光寺は慶長7年(1602)の創建と伝えられ、伝通院(徳川将軍家の菩提寺)の塔頭で、縁受院(えんじゅいん)と称した。明治17年(1884)に善光寺と改称し、信州の善光寺の分院となった。したがって明治時代の新しい坂名である。歩道のまん中に椋(むく)の老木がある。古来、この木には坂の北側にある稲荷に祀られている澤蔵司(たくぞうす)の魂が宿るといわれている。なお、坂上の慈眼院(じげんいん)の境内には礫川(れきせん)や小石川の地名に因む松尾芭蕉翁の句碑が建立されている。
"一しぐれ 礫(つぶて)や降りて 小石川"はせを(芭蕉)
また、この界隈には幸田露伴(1867-1947)・徳田秋声(1871-1943)や島木赤彦(1876-1926)古泉千樫(1886-1927)ら文人、歌人が住み活躍した。
―郷土をはぐくむ文化財― 文京区教育委員会 平成13年3月"
澤蔵司の魂が宿るという椋の木の老木があります。椋の木を残すように道路や歩道が作られていました。
慈眼院・澤蔵司稲荷 (たくぞうすいなり) ※寄り道
元和6年(1620)、伝通院の住職廓山上人が沢蔵司稲荷を境内に祭り、慈眼院を別当寺としたという言い伝えがある寺院です。信仰が篤いようで、熱心に参拝をしている人の姿が見られました。
澤蔵司稲荷に通じる参道に立ち並ぶ赤鳥居。
澤蔵司の本当の姿は稲荷大明神で、浄土宗を学びたくて修行僧に化けていたという言い伝えがあるようです。
"慈眼院(じげんいん)・沢蔵司稲荷(たくぞうすいなり)
伝通院の学寮(栴談林といって修行するところ)に、沢蔵司という修行僧がいた。僅か3年で浄土宗の奥義を極めた。元和6年(1620)5月7日の夜、学寮長の極山和尚の夢枕に立った。
「そもそも余は千代田城の内の稲荷大明神である。かねて浄土宗の勉学をしたいと思っていたが、多年の希望をここに達した。今より元の神にかえるが、永く当山(伝通院)を守護して、恩に報いよう。」
と告げて、暁の雲にかくれたという。(「江戸名所図会」「江戸志」)
そこで、伝通院の住職廓山上人は、沢蔵司稲荷を境内に祭り、慈眼院を別当寺とした。江戸時代から参詣する人が多く繁栄した。
「東京名所図会」には、「東裏の崖下に狐棲(狐の棲む)の洞穴あり」とある。今も霊窟と称する窪地があり、奥に洞穴があって、稲荷が祭られている。
伝通院の門前のそば屋に、沢蔵司はよくそばを食べに行った。
沢蔵司が来たときは、売り上げの中に必ず木の葉が入っていた。主人は、沢蔵司は稲荷大明神であったのかと驚き、毎朝「お初」のそばを供え、いなりそばと称したという。
また、すぐ前の善光寺坂に椋の老樹があるが、これには沢蔵司がやどっているといわれる。道路拡幅のとき、道をふたまたにしてよけて通るようにした。
沢蔵司 てんぷらそばが お気に入り(古川柳)
―郷土愛をはぐくむ文化財―文京区教育委員会 昭和56年9月"
無量山 傳通院 寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ) ※寄り道
伝通院は浄土宗第七祖了誉が応永22年(1415)に小石川極楽水に創建されたのがはじまりです。慶長7年(1602)、徳川家康の生母於大の方が逝去します。その法名が「傳通院殿蓉誉光岳智光大禅定尼」で、寿経寺を菩提寺としたことから「傳通院・伝通院」と呼ばれるようになったようです。こちらには千姫の墓所もあります。
伝通院の前を進むと竹早高校にぶつかります。 竹早高校、芸大付属竹早中学校の横を通ります。
三百坂(三貊坂) ※寄り道
なんでもない緩い坂道ですが「三百坂」という案内板がありました。松平播磨守の屋敷が近くにあったようです。松平家では屋敷のしきたりで、この坂で新しい家人を試したそうです。家人に遅刻の罰金として三百文を出させたことに由来する名前の坂です。元々は三貊(さんみゃく)坂と言ったようですが、家人たちが通称で「三百坂」と言い出したようです。
面白い由来のある坂です。
"三百坂(三貊坂)
『江戸志』によると、松平播磨守の屋敷から少し離れた所にある坂である。松平家では、新しく召抱えた「徒の者」を屋敷のしきたりで、早く、しかも正確に、役に立つ者かどうかをためすのにこの坂を利用したという。
主君が登城のとき、玄関で目見えさせ、後衣服を改め、この坂で供の列に加わらせた。もし坂を過ぎるまでに追いつけなかったときは、遅刻の罰金として三百文を出させた。このことから、家人たちは「三貊坂」を「三百坂」と唱え、世人もこの坂名を通称とするようになった。
文京区教育委員会 昭和55年1月"
播磨坂さくら並木 幻の環状3号線 ※寄り道
第二次世界大戦後の戦災復興事業における区画整理によって「環状3号線」の一部として整備された道路です。「環状3号線」は資金難で一部のみ開通しています。この地には松平播磨守の上屋敷があったことから、播磨坂と名付けられました。
昭和35年、「全区を花でうずめる運動」で桜が植樹されて立派な桜並木となったそうです。中央部は緑道として整備されています。
中央に整備されている遊歩道。
播磨坂を横切り、石川啄木終焉の地に向かいます。少し進むと、石川啄木終焉の地の案内看板を見つけました。
石川啄木終焉の地
石川啄木終焉の地はマンションになっています。左側の白いマンションが終焉の地です。喜之床の2階からこの地にあった借家に移り、亡くなるまでの約8か月を暮した場所です。
マンション玄関付近の壁に案内板があります。明治45年4月13日に父親や妻、若山牧水に看取られて亡くなりました。2か月後、友人の土岐哀果の尽力により「悲しき玩具」が出版されました。今はこの案内板だけが啄木の最後の地だったことを伝えています。
"東京都指定旧跡 石川啄木終焉の地
所在 文京区小石川5丁目11番7号
指定 昭和27年11月3日
石川啄木は明治19年(1886)2月20日(または18年10月27日)、岩手県南岩手郡日戸村(現 盛岡市玉山区日戸)の常光寺で生まれた。本名を一(はじめ)という。
盛岡中学校入学後、『明星』を愛読し、文学を志した。生活のため、故郷で小学校代用教員となり、のち北海道に渡り地方新聞社の記者となったが、作家を志望して上京、朝日新聞社に勤務しながら創作活動を行った。歌集『一握の砂』・『悲しき玩具』、詩集『あこがれ』・『呼子と口笛』、評論『時代閉塞の現状』などを著した。
啄木は、明治44年(1911)8月7日、本郷弓町の喜之床(現 文京区本郷2丁目38)の2階からこの地の借家(当時の小石川区久堅町74番46号)に移り、翌年病没するまで居住した。
この地に移った啄木は、既に病魔に侵されていた。明治45年4月13日午前9時30分、父一禎、妻節子、友人の若山牧水に看取られながら、結核により26歳の若さで亡くなった。芳名は啄木居士。
平成20年12月設置 東京都教育委員会"
団平坂(丹平坂・袖引坂)
団平坂は緩い坂道です。こんな坂道にも名前が付けられています。
団平という米つきを商売とする人が住んでいたのが名前の由来です。庶民の名前が付いた坂は珍しいようです。
"団平坂(丹平坂・袖引坂) 小石川5-9と10の間
「町内より東の方 松平播磨守御屋敷之下候坂にて、里俗団平坂と唱候 右は先年門前地之内に団平と申者舂米(つきまい)商売致住居仕罷(すまいかまつりあり)候節より唱始候由申伝 年代等相知不申候」と『御府内備考』にある。
団平という米つきを商売とする人が住んでいたので、その名がついた。
何かで名の知られた人だったのであろう。庶民の名の付いた坂は珍しい。
この坂の一つ東側の道の途中(小石川5-11-7)に、薄幸の詩人石川啄木の終焉の地がある。北海道の放浪生活の後上京して、文京区内を移り変わって四か所目である。明治45年(1912)4月13日朝、26歳の若さで短い一生を終わった。
椽先(えんさき)にまくら出させて
ひさしぶりに
ゆふべの空にしたしめるかな 石川啄木(直筆ノート最後から2首目)
文京区教育委員会 平成5年3月"
案内板は小石川図書館の前に設置されています。図書館をのぞいてみると、石川啄木を紹介するリーフレットが置かれていました。森鴎外や樋口一葉、「文京ゆかりの文人たち」、「文学作品の舞台を訪ねて小石川地区」などのリーフットも置いていました。さすがは文京の街です。
再び春日通りに戻ります。小石川五丁目交差点の方を見てみると、ビルの屋上に大きなサッカーボールが見えました。貯水タンクでしょうか。サッカー好きのオーナーが作ったのか、サッカーに関係した会社が入るビルなのか、と想像を巡らします。
春日通りを大塚方面に向かい、丸ノ内線茗荷谷駅の前を通り抜け、最後の目的地に向かいます。
縛られ地蔵(林泉寺) ※寄り道
林泉寺は、慶長7年(1602)に伊藤半兵衛長光の開基、通山宗徹を開山として創立された寺院です。この寺院には「縛られ地蔵」があります。
坐禅道場があることでも知られていて、座禅会には外国人も多く参加しているそうです。
願いをかける時に地蔵尊を縄で縛り、願いがかなうと縄をほどくそうです。大岡越前守忠相による反物泥棒の捕り物が縛られる由来となったようです。
"縛られ地蔵 小日向4-7-2 林泉寺
人々が願いをかけるとき地蔵尊を縄でしばり願いが叶うと縄をほどくので、しばり地蔵ともいわれた。『江戸砂子』には小日向林泉寺の、しばり地蔵は大変有名であると記されている。
「昔、呉服屋の手代が地蔵さまの前で休み居眠りをしているうちに反物を盗まれてしまった。奉行は石地蔵が怪しいと言って地蔵を荒縄でしばり奉行所に運んだので物見高い見物人が一緒に奉行所内に入ってしまった。許しもなく入った人々に罰として3日以内に反物を持参させた。その中に盗品があり犯人を検挙した。」この「大岡政談」の話しの地蔵尊は現在の葛飾区東水元(南蔵院)にあるが、「縛られ地蔵」として有名になったのもこの頃からと思われる。
―郷土愛をはぐくむ文化財― 文京区教育委員会 昭和60年3月"
石川啄木のゆかりの地を巡ってみると、周辺には多くの見どころが点在していて、普通に湯島・本郷・小石川の散歩となっていました...。
しかしながら、啄木が暮らした地を歩いてみると「どんな想いでこの坂道を上ったのだろう」などと思いを馳せながら、啄木の想いに触れることができました。少しだけ啄木に近づいたような気がします。