縁結びのパワースポットとして有名な「今戸神社」に行って来ました。東京スカイツリーを隅田川沿いに眺めながら歩いていて気付いたら今戸神社に着きました。
「今戸神社」は浅草からほど近い台東区今戸にあります。浅草寺から約1kmという距離です。水上バス「東京水辺ライン」の隅田川の桜橋発着場がすぐ近くにあります。
浅草名所七福神の一つだそうです。
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大黒天:浅草寺 恵比寿神:浅草神社 毘沙門天:待乳山聖天 福禄寿:今戸神社 布袋尊:不動院 寿老神:石浜神社 弁財天:吉原神社 寿老人:鷲神社 福禄寿:矢先稲荷神社 (福禄寿、寿老人が2社づつあるので、浅草名所七福神は9社寺あるそうです。「九は数の究み、一は変じて七、七変じて九と為す。九は鳩で。これは集まるの意味の他、天地の至数、易では陽を表す」という古事に由来しているそうです。)
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こちらの神社には女性でイラストレーターとしても活躍している美人神主さんがいることでも有名ですが、お会いすることは出来ませんでした...。神社の絵馬やマップなども書いているようです。(女性神主さんのブログ)
縁起が書かれた看板には「当社は元今戸八幡宮と称し、後冷泉天皇の時代康平6年(1063)源頼義、義家父子は勅命に依り奥州の夷賊安太夫安倍貞任(やすだゆうあべのさだとう)、宗任(むねとう)を討伐の折今戸の地に到り、京都の石清水八幡を鎌倉鶴ヶ岡と浅草今津村(現今戸)に勧請しました。・・・・・・・・・」とあります。
こちらの絵馬は丸い絵馬で招き猫の絵が書いてあります。女性神主さんの絵です。ほとんどが縁結びの願いが書かれているのだと思います。
「今戸焼発祥の地」と「沖田総司終焉の地」の石碑があります。
かわいい招き猫が並んだ石像がありました。「お江戸は浅草 今戸で生まれ 愛され続ける 招き猫」とあります。招き猫の発祥の地との云われもあるそうです。
今戸にただ一軒残る創業500年の今戸焼の窯元今戸焼白井の「今戸焼招き猫」は凄まじい人気で5万人待ちというブログ記事を見たことがあります。
権現造りの御社殿は昭和46年に造営されたものだそうです。私と同じアラフォーです。
ご祭神は應神天皇(おうじんてんのう)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)、浅草七福神の一神・福禄寿が祀られています。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の二柱の神が祀られていることから、国土を創成し、諸神を生み、山海や草木を生した夫婦神で、古くから産霊(むすび)の神として知られ、縁を結び、生産の基盤を固める神として人気がある神社です。特に若い女性を中心に人気を集めているようです。
この日は日曜日の朝でしたが、若い女性に限らず、多くの女性が参拝に来ていました。団体で来ている女性の方々もいらっしゃいました。
「本郷も かねやすまでは 江戸の内」、本郷三丁目の交差点にある洋品店「かねやす」さんには川柳の看板が掛かっています。これは江戸時代の川柳だそうです。ブラタモリによると、 この辺りを境に華やいだ風景が郊外の風景に変わったそうです。
「かねやす」文京区教育委員会の説明書き
兼康祐悦という口中医師(歯科医)が、乳香散という歯磨粉を売り出した。大変評判になり、客が多数集まり祭のように賑わった。(御府内備考による)
享保15年大火があり、防災上から町奉行(大岡越前守)は三丁目から江戸城にかけての家は塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺を禁じて瓦で葺くことを許した。江戸の町並みは本郷まで瓦葺が続き、それからの中仙(中山)道は板や茅葺の家が続いた。
その境目の大きな土蔵のある「かねやす」は目だっていた。
『本郷も かねやす までは江戸のうち』と古川柳にも歌われた由縁であろう。
芝神明前の兼康との間に元祖争いが起きた。時の町奉行は、本郷は仮名で芝は漢字で、と粋な判決を行った。それ以来本郷は仮名で「かねやす」と書くようになった。
本郷通りの三丁目交差点から東大の赤門の方面へ向かう中山道には、僅かな勾配の凹凸があります。 ここには「別れの橋跡 見送り坂と見返り坂」の設置看板があります。
「別れの橋跡 見送り坂と見返り坂」文京区教育委員会の説明書き
「むかし太田道灌の領地の境目なりしといひ伝ふ。その頃追放の者など此処より放せしと・・・・・・いずれのころにかありし、此辺にて大きなる石を堀出せり、是なんかの別れの橋なりしといひ伝へり・・・・・・太田道灌(1432~86)の頃在任など此所よりおひはなせしかは、ここよりおのがままに別るるの橋といへる儀なりや」と『改撰江戸志』にある。
この前方の本郷通りはややへんこんでいる。むかし、加賀屋敷(現東大構内)から小川が流れ、菊坂の谷にそそいでいた、『新撰東京名所図会』(明治40年刊)には、「勧業場本郷館(注・現文京センター)の辺は、地層やや低く、弓形にへこみを印す、其くぼめる所、一条の小渠、上に橋を架し、別れの橋といひきとぞ」とある。
江戸を追放された者が、この別れの橋で放たれ、南側の坂(本郷3丁目寄)で、親類縁者が涙で見送ったから見送り坂。追放された人がふりかえりながら去ったから見返り坂といわれた。
今雑踏の本郷通りに立って500年の歴史の重みを感じる。
この先には東京大学の赤門があります。赤門付近には江戸時代に加賀金沢前田家の上屋敷があった場所です。
文政10年(1827年)に加賀13代藩主前田斉泰に嫁入りした11代将軍徳川家斉の息女溶姫(やすひめ)のために建てられた御守殿門です。将軍家から嫁入りがあった時には朱入りにする習わしがあったそうです。
この婚礼には『武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書)』に登場する加賀藩御算用者である猪山家が婚礼準備係として赤門の創設にも深く関わっています。
武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書)
本郷三丁目付近だけでも面白い場所です。
文京区湯島にある学問の神様「湯島天神(湯島天満宮)」の梅まつりライトアップに行って来ました。 雪の降る中で余り人がいませんでしたので、ゆっくり梅を眺めることが出来ました。まだ咲いていない木も多かったです。
・梅まつり期間:2011年2月8日から3月8日まで
(暗い中でiPhone3GSの写真は最悪です...)
春日通り側の鳥居です。江戸時代はこちらは裏側だったようです。
男坂(暗くて見えませんが・・・)、江戸時代はこちらがメインの入口で参道が栄えていたと聞いたことがあります。
趣のある総檜造りの本殿です。
【湯島天神の縁起】湯島天神ホームページより
御祭神
天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)
菅原道真公(すがわらみちざねこう)
例祭日 五月二十五日
社 名 湯島天満宮 名称
湯島天神は 雄略天皇二年(458)一月 勅命により創建と伝えられ、天之手力雄命を奉斎したのがはじまりで、降って正平十年(1355)二月郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請しあわせて奉祀し、文明10年(1478)十月に、太田道灌これを再建し、天正十八年(1590)徳川家康公が江戸城に入るに及び、特に当社を崇敬すること篤く、翌十九年十一月豊島郡湯島郷に朱印地を寄進し、もって祭祀の料にあて、泰平永き世が続き、文教大いに賑わうようにと菅公の遺風を仰ぎ奉ったのである。
その後、学者・文人の参拝もたえることなく続き、林道春・松永尺五・堀杏庵・僧堯恵・新井白石などの名が見える。将軍徳川綱吉公が湯島聖堂を昌平坂に移すにおよび、この地を久しく文教の中心としていよいよ湯島天満宮を崇敬したのである。
明治五年(1872)十月には郷社に列し、ついで同十八年(1885)八月府社に昇格した。
明治維新以前は、上野東叡山寛永寺が別当を兼ね、喜見院がその職に当った。
元禄十六年(1703)の火災で全焼したので、宝永元年(1704)将軍綱吉公は金五百両を寄進している。
明治十八年に改築された社殿も老朽化が進み、平成七年十二月、後世に残る総檜造りで造営された。
帰りにお茶の水方面に向かっていると、急勾配の坂を発見しました。昇り降りしてみましたが、かなりの勾配です。「実盛坂」だそうです。
(これもまた、暗い写真です...)
この坂にあった看板によると、
「江戸志」によれば「・・・湯島より池の端の辺をすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当実盛の居住の地なり・・・」とあるそうです。また、この下の南側に、「実盛塚」や「首洗いの井戸」がこの坂の下にあったという伝説めいた話が「江戸妙子」などにあり、坂の名前になったそうです。
斎藤別当実盛は加賀で戦死しており、実盛を忍び、この様な伝説が生まれたのではないかと書かれていました。
東京に雪が降った2月11日、テオ・ヤンセン展(2010.12.9~2011.2.14)に行って来ました。会場はお台場の日本科学未来館です。「ビーチアニマル」を13点も展示していました。
この特別展は、1月23日のエントリー「風を受けて歩く生命体「テオ・ヤンセンのミニビースト」(大人の科学マガジン(vol.30))。」でUDON2さんに教えて貰いました。自分で組み立てたミニビーストの動きに魅了され、是非、本物を見てみたくなりました。
「ビーチアニマル」はオランダ人のテオ・ヤンセン氏が生み出した生命体です。この生命体はプラスチックチューブで作られた体で、風からエネルギーを取り込んで歩きます。
生命の進化と照らし合わせながら、「新しい命の形」や生命について考えさせる展示内容となっていました。
世界初公開の「アニマリス・シアメシス」です。このビーチアニマルは実際に動くところを実演していました。動くところを間近に見ると、本当に生き物のようです。
ペットボトルに空気を貯蔵して、風がなくても動くそうです。岩や水を感知して逆走する機能も備えていますので、砂浜で動き続けることが出来るのです。
ビーチアニマルを間近で観ることが出来ます。結束部などを見ると、普通のプラスチックの結束具を使っていることが分ります。ペットボトルも普通のものです。
これは木材を使った「アニマリス・リノせロス・リグナタス」です。
材料も普通にあるものであり、作りも粗く見えますが、綿密に計算されて作られているアニマル達は風を受けることで動き出します。鬼才テオ・ヤンセン氏が生命を宿らせたアニマルは美しさも備えていました。
写真と動画を組み合わせました。男性スタッフが近寄った時、偶然ですが威嚇したように見えました。
一関市厳美町にある手作りアイスの店「ポラーノ」でアイスクリームを食べました。平成20年6月14日に発生した「岩手・宮城内陸地震」の後には初めての訪問となりました。
一関市内から国道342号線を秋田方面に向かい、厳美渓を超えて更に須川に向かう途中にあります。一関ICから約10kmの位置です。
このお店は季節ごとにオリジナルのアイスクリームが楽しめます。 今日は紫いもやパンプキンなど19種類のメニューがありました。
私は季節限定の「さつまいも」と「くるみ」のダブルを食べました。「さつまいも」はいもの味わいが残ったあっさりした味です。「くるみ」はすり潰したクルミが練り込んである濃厚な味でした。
左が「さつまいも」、右が「くるみ」。
ショーケース、19種類ありました。その内、季節限定が4種類ありました。
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ちょっと前の話ですが、10月9日にお茶の水界隈を歩いていて発見したこと。
その日は「お茶の水アートピクニック2010」というイベントが御茶ノ水駅周辺で行われていました。
「文化と歴史の街・お茶の水パネル展」として、江戸から昭和にかけてお茶の水周辺に由来がある人物等をパネルで展示していました。
江戸の古地図があり、何気なく由来の人物を眺めると、「伊達政宗」の名前がありました。由縁の場所は「神田川」とあります。
えっ!?と思い、そのパネルに目をとめました。
徳川家康から、江戸城をどこから攻めるか問われた政宗はお茶の水を指差したそうです。二代将軍秀忠の時に神田山を外堀とする大工事が行われ、水道橋からお茶の水にかけて仙台藩が施工を担当したとのことでした。
このため、この地区は仙台堀や伊達堀とも称されたそうです。
江戸の古地図
伊達政宗