蝦夷の英雄アテルイの真実を描く「毘沙門叩き」(朝日クリエ 木内宏著)を読みました。著者が構想から21年で書きあげた渾身の物語です。古代、東北に暮らした先住民蝦夷とアテルイの汚名を返上する強い決意のもとに書きあげた書です。
毘沙門叩き
歴史 一覧
2月28日、遠野市のあえりあ遠野で開催された井沢元彦氏講演会「遠野物語に見る日本と日本人」に行ってきました。井沢元彦氏と言えば、「逆説の日本史」で有名な作家です。
逆説の日本史17 江戸成熟編 アイヌ民族と幕府崩壊の謎
いつか読みたいと思いながら、やっと「のぼうの城」を読みました。
のぼうの城
天下統一を目指す豊臣秀吉が小田原城攻めの際に唯一落とせなかった「忍城」(現在の埼玉県行田市)の攻防が描かれています。「忍城」に攻めた豊臣軍の総大将は石田光成です。
圧倒的な大軍で豊臣軍が攻め入る中、忍城の武将たちの奇策を織り交ぜた戦いぶりが痛快です。
城代となり戦を宣言した「のぼう様」は領民からも"でくの坊"と思われるほどの人物です。無能な者への妙な求心力がこの戦において大きく作用します。
戦国の世において、例え敵味方であっても仁義が重んじられていたことが分ります。敗者に対する礼を大切にする戦国武士の義は現在の武道につながると思いました。
また、至る所に資料を基にした史実が織り込まれています。この辺りは違和感を覚える人も多いかと思います。 この小説が事実に基づいていることが実感でき、そのことで物語へ引き込まれるという面もあるかと思います。
小説の中で、先の展開を説明する部分もありますが、そこに至るまでをワクワクしながら楽しむことが出来ました。
2011年秋には映画化されるそうですので観に行きたいものです。「のぼう様」を野村萬斎が演じるということで楽しみです。
忍城の場所です。以前、この近くを何度か通ったことがあります。その当時は「忍城(おしじょう)」を「しのぶじょう」と読むものだと思っていましたし、凄い城だとは思いもよりませんでした。
タイトルだけ見ると内容を勘違いしそうですが、歴史学的見地から中国を分析しています。
中国には「指桑罵槐(しそうばかい)」ということわざがあるそうです。「桑の木を指して槐(えんじゅ)を罵る」、本当の怒りの矛先とは別の物を攻撃するという意味だそうです。このことわざだけでも現在の中国を理解することに役立つと思います。
中国人の行動原理「指桑罵槐」には「バルネラビリティ(脆弱性)の原理」により他人に弱味を見せてはいけないというタブーが働いていると説いています。この原理がなぜ生まれたのかを歴史学的に理由を明らかにしています。
古代から本来の国家として中国が存在したことはなく、交易を中心とした流通システムで結びついた商業都市連合が国となり、王とはマーケットの支配者であったということです。数千年もの間、この様な状態が続き、広大な土地には個人だけが存在しており、自分だけが頼りという徹底した個人主義が根付いたそうです。
この厄介な国、中国 (WAC BUNKO)
また、特に印象に残ったのは中国では古代から共通言語が存在していないことです。漢文と現代中国語は全く違うものだという事にも驚きました。正確な公文書の作成に漢文は利用されてきたそうです。新しい出来事や変化を表現出来ない漢文という手段しかなかったことから情緒や感情を伝える手段がなかったのです。
「時として言葉により、感情表現が制限されるのではないか」という言語学者の話を聞いたことがありますが、感情表現できない言語体系という世界は想像できないものです。
さらに欧米の歴史から最強の国家システムである国民国家(ネーションステート)への変遷の試みについて最終章で一気にまとめられています。
現在の中国も国民国家の樹立には至っておらず、民族や歴史、言葉も違う広大な国を統治するシステムは脈々と続いてきた「皇帝システム」でしかないと結論付けています。
"では、現実に存在してきた「中国」とはなにか。すでに述べたとおり、ただひとり、皇帝のみが「中国」であり、彼が支配する流通システム網だけが、その「帝国」なのである。だから、元などの異民族の帝国であろうと、明などの秘密結社出身の王であろうと、ひとたび皇帝となり、その流通システムを通じた統一支配を行えば、それが「中国」だということになる。"
― 出典: この厄介な国、中国 (WAC BUNKO) , 229ページ より
日本人が中国人を理解出来ない、理解したつもりで勝手に不快に思っている理由の一端をしることが出来ました。
武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書)
筆者を知ったのはNHKの古地図で巡る龍馬の旅 (趣味工房シリーズ NHK直伝和の極意)です。この本を知ったのはNHKの「爆笑問題のニッポンの教養」(「江戸時代のTwitter」編)でした。古文書を読み解き、歴史の真実に迫る情熱にとても好感が持てました。
この本は加賀藩士である猪山家の家計簿や書簡、日記をもとに幕末から明治にかけての激動の時代を生き抜いた武士の実態に迫るというものです。以前から武士の家計簿を探していた筆者が猪山家の家計簿に出会い、解読作業を始めます。筆者の興奮が伝わってきて、一気に読んでしまいました。
江戸時代の武士の生活や家計、家族のつながりなどを家計簿を通して紐解いていきます。当時の武士は家計が火の車だったことは意外でした。出世するほどに江戸詰による経費や交際費が嵩むのです。それは武士の給与が家柄や先祖の功績によって決められていたことに由縁します。(東大の赤門は加賀藩主と将軍家姫君との婚礼の際に建てられ、猪山家が携わっています)
明治維新という大変革の時代で武士がどうなったのかは歴史の表舞台には出てきません。官職に付けた者はごく一握りでした。
明治政府は「家禄奉還」という、今でいえば「早期退職制度」のようなリストラを実施します。正に多くの武士にとっては天と地がひっくり返ったようなものです。
猪山家は加賀藩で御算用者(会計、算術のプロ)として大出世を果たしており、明治政府においても海軍に登用されました。官職についた者はかなりの収入があり、猪山家は生活に困窮することはなかったのです。
明治維新の激動の中で猪山家は会計や算術のプロとして生きる道が用意されていました。このことを通じて、長けた技術や技能を身につけること、教育の大切さを知ることが出来ます。
≪この本で気になったことの覚書≫
「仙台藩ものがたり」(河北新報社)によると、仙台藩では藩士に知行地を直接与える制度を取っており、このような藩は少ないということでした。仙台藩の繁栄は知行地を与えることで新田開発が進んだことが貢献しています。その反面、幕末の新しい時代変革に付いて行けなかった要因ともなりました。
仙台藩ものがたり
このことに関連して、筆者が余談としていた第1章の「なぜ明治政府は武士の領主権を廃止できたか」という項に注目しました。武士が在郷して領地をしっかり経営していたのは九州西南や仙台藩などが代表的だったそうです。大部分の藩では領民の顔も領地を見ることもなく知行石高に応じて年貢を受け取る制度「蔵米知行」が確立していたそうです。『現実の土地から切り離された領主権は弱い』ものであり比較的容易に解体できたのではないかというものでした。
武士の領主権が現実の土地と結びついていた鹿児島藩などは西南戦争などの士族反乱になったというものでした。
2001年3月から翌年3月まで54回にわたり、河北新報朝刊に連載された「開府四百年 仙台藩ものがたり」をまとめたものだそうです。
秀吉の命による政宗の朝鮮半島出兵から物語は始まります。前半は朝鮮半島出兵が仙台藩開府に与えた影響にスポットが当てられています。
新聞社の連載だけあって、多方面への取材によるインタビューが多様されており史実を確かなものとして受け止めることが出来ました。
仙台藩の新田開発、水運による隆盛から戊辰戦争後の衰退まで、その背景まで知ることが出来ました。
仙台藩は豊かな藩だったそうです。それは新田開発を奨励したことに大きく起因します。貞山掘や北上川の付け替えなどにより、水の確保と水運でコメの生産と流通を確保したのです。石巻は江戸へコメを運ぶ港として機能していました。
しかし、その豊かさとコメ一辺倒の経済政策により、保守的な藩体質を生んでしまい、幕末の近代化について行かなかった面もあるそうです。
一方、学問や国際感覚に優れた人材も多く輩出しています。
仙台藩ものがたり
発見としては、
・財政を立て直し名君と言われた5代目藩主の吉村が一関市大東町大原が出世の地との説がある。
・忠臣蔵の浅野内匠頭は一関藩田村家お預けとなり、その屋敷で切腹した。
・日本人で初めて世界一周した津田夫は石巻から江戸に向かう途中に若宮丸で遭難後に漂流した。(これは寺島実郎著世界を知る力 (PHP新書)の中でロシアと日本の古いつながりとして紹介されていたのですが、なんとなく読み流していたものです)
・戊辰戦争後に仙台藩から多くの北海道開拓移民がいた。
などなど、無知な自分には多くの発見がありました。
造幣局から、注文していた「2010年トルコにおける日本年プルーフ貨幣セット」が届きました。抽選で補欠当選とのことでしたが、ホームページを見るとまだ販売しているようです。
今年が日本トルコ友好120周年に当たることを記念して、トルコ造幣局が製造する"2010年トルコにおける日本年50トルコリラ記念銀貨幣"と日本の硬貨を組み込んだプルーフ貨幣のセットです。
プル-フ貨幣とは、「特殊な技術を用いて表面に光沢を持たせ、模様を鮮明に浮き出させた貨幣」です。
トルコリラ記念銀貨幣は、表面にエルトゥールル号、裏面にエルトゥールル号殉難将士慰霊碑がデザインされているそうですが、裏面は見てません・・・。
なお、このトルコリラ記念銀貨は収集目的で製造されたもので、トルコで実際に使うことはできないそうです。
まるで高価な本の様な外装です。
外装ケースがから取り出すと、立派なん内装ケースが出てきます。
開けたところ。
確か、トルコの方は親日家が多いと聞いたことがあります。それが、この銀貨に描かれているエルトゥールル号の遭難事件から始まったということのようです。
『エルトゥールル号遭難事件』
1890年9月16日、トルコ皇帝ハミル2世が日本に派遣した特使一行を乗せたエルトゥールル号が和歌山県串本沖で遭難して500名以上の犠牲者を出した事件です。
その事故の際に、地元の住民が救助と手厚い救護を行ったそうです。
ちょっと前の話ですが、10月9日にお茶の水界隈を歩いていて発見したこと。
その日は「お茶の水アートピクニック2010」というイベントが御茶ノ水駅周辺で行われていました。
「文化と歴史の街・お茶の水パネル展」として、江戸から昭和にかけてお茶の水周辺に由来がある人物等をパネルで展示していました。
江戸の古地図があり、何気なく由来の人物を眺めると、「伊達政宗」の名前がありました。由縁の場所は「神田川」とあります。
えっ!?と思い、そのパネルに目をとめました。
徳川家康から、江戸城をどこから攻めるか問われた政宗はお茶の水を指差したそうです。二代将軍秀忠の時に神田山を外堀とする大工事が行われ、水道橋からお茶の水にかけて仙台藩が施工を担当したとのことでした。
このため、この地区は仙台堀や伊達堀とも称されたそうです。
江戸の古地図
伊達政宗
江戸時代の学問・教育の総本山「湯島聖堂・昌平坂学問所跡」に行って来ました。場所はJRお茶の水駅の直ぐ側です。
残念ながら、開館時間より早く行ってしまい、時間もないことから外側だけを眺めてきました。
湯島聖堂は元禄時代に5代将軍徳川綱吉によって建てられた孔子廟だったそうです。1797年には江戸幕府直轄の学問所「昌平坂学問所」となったそうです。
ブラタモリ「神田」によると、明治時代に湯島聖堂博覧会が開催されて名古屋城の「金のシャチホコ」が運ばれて展示されたそうです。
昌平坂。古い石垣が見えました。
神田川側。
聖橋と御茶ノ水駅、手前は神田川です。
聖橋から、緑が多くて都会のオアシスといった感じです。
場所
10月9日の土曜日、東京のパワースポットとしても注目されている神田神社に行って来ました。場所はJR御茶ノ水駅や湯島聖堂の近くにあります。
朝の9時でしたので人はまばらでゆっくり見学が出来ました。鳥居から奥に見える門が非常に色彩鮮やかなことに驚きました。
参道を進むと色鮮やかな随神門があります。 「因幡の白兎」などの神話をモチーフにした装飾があります。
中に進むと、珍しい正面を向いた狛犬が並び、御神殿があります。御神殿でお参りを済ませて敷地内を散策しました。
境内案内図。多くの施設があります。
神田明神御由緒。
御祭神
一の宮 大己貴命(おおなむちのみこと)
だいこく様。縁結びの神様。天平2年(730)ご鎮座。
国土経営、夫婦和合、縁結びの神様として崇敬されています。島根県の古社・出雲大社のご祭神でもあります。
二の宮 少彦名命(すくなひこなのみこと)
えびす様。商売繁昌の神様。
商売繁昌、医薬健康、開運招福の神様です。だいこく様とともに日本の国づくりをなされました。
三の宮 平将門命(たいらのまさかどのみこと)
まさかど様。除災厄除の神様。
平将門公は、承平から天慶年間、武士の先駆け「兵」として、関東の政治改革をはかり、命をかけて民を守ったお方です。東京都千代田区大手町・将門塚には将門公の御首がお祀りされています。
えびす様尊像。
獅子山(千代田区指定有形民俗文化財)。
銭形平次の碑。台座が寛永通寶になっています。
期間限定で売っていたハローキティ誕生35周年のお守り。裏には神田神社と文字が入っています。
湯島聖堂も近く、緑が多い地域です。比較的早い時間に行ったおかげで、参拝者が少なく有意義に過ごすことが出来ました。本当に元気を貰って来ました。
場所